臨時掲載

メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬
http://3maisou.com/

トミー・リー・ジョーンズの監督・主演作。ヴィム・ヴェンダースの「ランド・オブ・プレンティ」と共通のモチーフ・主題を、しかし別の手触りで、誠実に、今日のアメリカ映画として作り上げるトミー・リー・ジョーンズの監督としての姿勢に、かなり打たれました。泣きました。なんというか、単純な(西部劇の古き良き)夢と(現代の)現実のギャップの映画などではないのです。夢と現実の現実的な連結は実は過酷でも可能であること、かつ必要でもあること、と同時に不可能でもあること…そんな矛盾したやっかいな世界へのストレートなまなざしに泣けるのです。こういうとわかりやすいのかな。心には理想や美しさは必要で、その意味では夢は現実に必要なものであり、かつ人々は、それを何らかの形で現実に有してもいる、でも、それは突き詰めていくと、現実には「ない」。では、そうしたやっかいさは、どのように表現可能なのか。この映画は、そんな誠実な問いかけの中にあります。だから、トミー・リーは不可能な旅に出るのです。

ネタばれで行きますね。

不法入国のメキシコ人の親友の死体を、トミー・リー・ジョーンズは、射殺した犯人バリー・ペッパーを誘拐して手伝わせながら、遺言に従って故郷へ届けようとする、という話です。このときアメリカの外側にある美しい夢のような故郷とは、単に不可能な想念上のものなのです(メキシコでもアメリカの昼メロドラマが流れているし、メキシコで人が自由になれるわけではないし、そもそも誰も彼もが豊かなアメリカを目指している…そしてそもそもメルキアデスの語る故郷は、嘘にすぎなかったことが明らかにされるのです)。しかし同時に、その想念としての場所を、めざし、実際に、死体と殺人者と老カウボーイのトミー・リーはたどり着く、とも言えます。また、実際そこには、ある種の回復もあるのです(人を殺してしまったことへの強い後悔を、ペッパーは最後の最後にm
、人間として「獲得」することができるのは、彼が彼の薄っぺらい生の中に、夢の「故郷」を持つことができたからです)。

旅は滑稽でもありました。しかし、やっかいでもある。また、戻る場所のない旅でもある。この旅を経てしまっては、もう、適当にごまかし飾る人生は難しくなってしまったのかもしれない(死という問題もここにはあります。後戻りできない旅とは、老いそのものでもあって、山奥に一人住む食料を運んでくれる息子が死んでしまった老人が、殺してくれと頼むシーンが思い出されます)。しかし、夢の地は、安住できるほど確固たる場所ではなく、作り上げる「家」は、廃墟にわずかに枝を渡しただけの、すぐに崩れ消えて無くなる程度のものなのです。これは痛いですよ。「夢」の痛い側面なのです。

ギジェルモ・アリアガが脚本なのですねー。「21グラム」の人です。納得。

BGM:冬の踊り子「JAZZ」
http://bridge-inc.net/store/?p=productsMore&iProduct=2608
くるり曽我部恵一などのアートディレクションをしているという古賀鈴鳴のプロジェクトです。力量もないのだけど、しかし狙いすましてもいる粗さが気持ちよいのです。後半の、どんどん乱暴に、デモテープをつなげただけみたいになっていくところ含め。

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BGM : Jimi Hendrix「Are You Experienced?」

やー、普通に「Foxy Lady」から盛り上がっています。大音量でないとだめですね。「Can You See Me」ほろろー(謎)。まあ、有名曲・名曲揃いで。

ラース・フォン・トリアーの最新作「マンダレイ」をようやく見ました。「ドッグヴィル」の続編です。
http://www.manderlay.jp/

基本、ネタばれです。

ドッグヴィル」においてもそうですが、トリアーにおいて俯瞰は、この世界の狭さと通じるのですよね。「マンダレイ」でいえば、綿花の収穫を終えた人々が、空を見上げるシーンです。ツバメが、大量にカメラの前を横切り、その下に、マンダレイの地が見える。この物理的なカメラと対象の近さが、同時にその俯瞰に、神のようなその世界すべてを見通す力と、すべてを消し去りうる権力を象徴させるとき、映画の本質的な狭さが現れてきます。それはスクリーンのサイズ、カメラのフレーム、映画館という閉ざされた暗闇、上映時間等々、無数の閉鎖性によって映画が成り立つことに通じているのかもしれません。

そうした「狭さ」をどう危うくするか、しかし突き詰めるほど、狭さは狭さにしかなっていかない、だから、その世界を変質させる(病にかからせる)あるいは消し去るといったことが、トリアーの本質的な戦略となります。舞台として、「ドッグヴィル」や「マンダレイ」の空間ができるのは、それ自体のばかばかしさ、ユーモアを一種の病としつつ、同時に、それが本質的に消し去りうるものだから(つまり映画的な閉鎖性にふさわしいから)だと感じます。実際、決して舞台的な装置にならないように、この映画が工夫されていることをちゃんと見てあげなければなりません。その意味でも「俯瞰」のカメラワークはポイントです。

この映画で描かれる閉鎖性とは、実際の物理的な閉鎖だけではなく、フィクションとして、精神に作用する閉鎖でもあるわけです。奴隷制度廃止後も奴隷制度が続いており、しかもそれが暗黙の了解の元、幸福のためになされていた、ということ、つまり奴隷制度というフィクションが演じられていたわけです。しかし、そうした根拠のない遊技が、アメリカの様々な地で、繰り返し演じられているとしたら、そしてそこで、貧しさに死んでいく少女や、暴力で死んでいく人々がいるとしたら、さらにそれすら、縛られ隷属され、搾取されている人間が、自ら望むとしたら。

フィクションとしての隷属。まあ、小泉やブッシュに票を入れる国の人間は、そういわれても仕方がないのですが(笑)。しかし、民主主義のその絶望的な本質への言及も含めて、アメリカ(映画)への言及は、しかしではどこで、映画の可能性へと通じていくことができるのか。

トリアーが連作であることを必要とするのは、1本の映画の中に回答としての突破口が無いからかもしれません。むしろ閉鎖域の中で一度成立させた美しいものを、トリアーはある種の誠実さと恐怖(不能性?)に基づいて、自ら閉鎖域の中に押し込めてしまうように感じます。しかし、それでも映画は作られ続ける。俯瞰に据えられたカメラは、自在に人を消したり出現させたり交代させたりできる、つまりそこから映画は逃れられないとしても、それでも映画は続きうる。1つの映画=閉鎖域から別の映画=閉鎖域へと移動すること(それが可能であること)、そしてそれぞれの閉鎖域が、それぞれを批評しあうこと(ドッグヴィルマンダレイは、被支配者の革命、支配者の革命、2つの別種のものとして相対しながら、同時に結局は同じものとしても存在することで、批評しあう)。そこに、やっかいな映画を巡る欲望があるのかもしれません。美しく豊かな映画に、自ら「×」を刻み込みながら、むしろ否定されたものの連続によって、それを生き延びさせていく…。私は、こういう映画作家がいることは、悪いことではないと思うのでした。そこでは、間違いなく、映画の可能性が問われているからです。

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BGM : Red Hot Chili Peppers「Blood Sugar Sex Magik」

ああ、定盤(笑)。いや、すばらしいです。かっこいいですねー。こういうのに燃えることは、やはり悪くない。ただ、これだけでも足りないのは、私の欲望が深いからか、それとも、ただ浮ついているせいなのか。

ゴダールの「愛の世紀」は、前後半に別れているわけですが、物語的には、前半が現在であり、後半がその2年前の回想とされているにもかかわらず、そうした時系列の問題が、物語的に機能しない(記憶と現在の関連性はある。しかし、過去の記憶が、現在に物語的に及ぼしている作用はそう強くない)のは、この作品が、物語中で何度も語られているとおり、「大人になろうとする青年の話」であり、必然的に「歴史」についての映画だからなのだと思います。

言い換えれば、これも映画の中で語られるせりふですが、この映画は、愛を個人の物語ではなく、「歴史」としてとらえようとしているのです。「歴史」とは、ここではかなり抽象的な概念です。何年に、どんな出来事があった、とかではなく、歴史=思考としての「歴史」です。

「歴史」とは、実のところ、現在(定点)から振り返っての過去、というだけではなく、本質的には、二つの時代の相互的な参照関係の中で思考されるものです。従って当然、歴史は流動し、複数存在する。語られたり語られなかったりする無数の歴史が、その時代時代の権力/その権力につくかつかないかは別にして、その時代時代の思考/個々人の知られていたり知られていなかったりする様々な過去の出来事などの積み重ねにより、確かにあるわけです。

「歴史」は、権力がその権力の担保としてねつ造したある固定した見方で物語化することもあれば、ある時には、説明不能な無数のものも混じらせながら。それはともすれば個人の身体の感覚と密着したものとして存在するかもしれない。パーソナルな愛の事柄かもしれません。パーソナルな愛も、歴史の一部であり、かつ「歴史」を構築する思考を誘発する。それが「愛の世紀」における女優と監督の2年前の出会いと、2年後の別れであるのです。2つの時間が存在すること。そこで愛が、問題として浮上しながら、出会いも別れも具体的な物語を構築せず(つまり個人の物語とはならず、回避され)、あっけない喪失だけが最後に用意されること。歴史は物語と近しいのに、そのままではない、というのは、この2つの時間2人の関係(交わりながら、交わらない)に表れるのかもしれませんね。恋愛の物語ではなく、思考と語らいだけが、2つの時間の歴史の問題として浮上する。しかし、だからこそ、歴史に対する思考そのものを浮かび上がらせるのかもしれません。

レジスタンスの老婦人のもらす、その一息一息が、生命を外に吹き出すような、あえぎに似た息が印象的でした。彼女は、レジスタンスという、フランスの歴史のある意味公的な一部を担っているわけですが、と同時に、そのあえぎに似た息において、若き抵抗の時代と老年との対比としての「歴史」に、文字通り身を置いているとも言えます。

それは、彼女の存在そのものが、歴史=思考を誘発している、と言い換えられそうです。

前半だけ、あるいは後半だけなら、ゴダールのこの映画は、ガレルのような身体の切実さ(痛さ)で出来上がっていったのかもしれません。しかし、ゴダールは、あえぎを漏らしながらも、痛みすらアーカイブ=記憶=ビデオ映像としていく(荒れた映像もまたあえぎなのかも)。しかし、では現在とされたモノクロのフィルムの映像は、過去に対して優位な現在なのか(一義的にそこから過去を決めつけられる場所なのか)。むしろ、記憶との参照項としての現在にすぎず、「歴史」においては対等なのではないか。そんな風に思います。その性質が違うものとして全く区分けされた二つの時点の、直接的な連続に、思考があるのではないか。

ガレルといえば、「白と黒の恋人たち」という映画がありました。「愛の世紀」と並べて考えると、面白い気がします。その2作もまた、2000年前後に作られた非常に刺激的な映画として、同時代的な参照関係を結んでいるように思えるのです。ああ、調べたら、どちらも2001年の映画ですね。

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BGM : Archer Prewitt「wilderness」

シー・アンド・ケイクのギタリスト、アーチャー・プレウィットのアルバムです。たゆたう感じでね、気持ちいい。音も、かなり配慮の行き届いたものだしね。T3「O, Ky」とか好きだなぁ。T4「Go Away」も気持ちいい滑り出し。

「ヘドウィグ・アンド・アングリー・インチ」を初めてリバイバルで見たのですが、一種恥ずかしさを感じるほど若さがある、実験的な映画なので、ちょっと驚いたのでした。大ヒット作だし、もっと明確なドラマものだと思っていたのです。予想とだいぶ違いました。

PVが90分の全編に引き延ばされた、コンセプトアルバムならぬコンセプトPVって感じで見ていました。ある時代の記録的な側面と、フィクションとしての裏面史的な要素のミックスの中で、影の青春史のようなものがフィクショナルに構築されていく…そこでは、映画であることよりも、「ロック」が大事であった野脱兎想像します。ポール・トーマス・アンダーソンの「ブギーナイツ」も思い出しました。「ブギーナイツ」は、映画を志して造られているとは思いますが、たとえばあそこで使われていた音楽の使われ方を振り返り、また参照項としてヴェンダースの音楽の使い方なども思い出しながら、映画作家たちの「アメリカ」に対する態度表明なんてことを考えるわけです。ああした音楽たちが、アメリカのそれぞれの時代にあったこと。それが、アメリカのいまの一部であり、バックボーンであること。それらは、確かにここにはあったはずだし、そしてそれこそが、ここを造ってきたはずだ、という思いを示すこと。「ヘドウィク〜」でいえば、(作り手が、音楽的にもセクシュアリティ的にも、この映画で描かれている世界を偏愛していたかどうかはともかくとして)、ゲイたちが作り上げてきたカルチャー、そしてロックは、冷戦とその終わりとも呼応しながら、アメリカの現在に連なる一部であり、むしろそこにこそ輝く青春や愛があったということが、叫ばれなければならない(隠されたアングリー・インチとして)のでした。

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Sonic Youth 1st「SONIC・YOUTH」。

それがどのようなジャンル的定義をされているかはさておいて、ギター=ノイズ装置としての可能性を模索しているかどうか、ということが、ミュージシャンを好きになるならないの重要な基準の一つだったりする私にとっては、Sonic Youthはリスペクトして止まないミュージシャンなのです。久しぶりに再発されたというこの1stからすでに、彼らがギター=ノイズ装置であることをめぐって、聡明で自覚的な音を作り出していることがよくわかります。ああ、かっこいい。そしてまがまがしいなぁ。初期ライブの音源入りです。

中川信夫の「地獄」を見ていると、天知茂に対して、天知を地獄へと誘う悪魔的な存在である友人・沼田曜一も、沼田がひき逃げしたやくざの情婦も、「おまえのすべてを知っている」というのですが、それは、究極には、嵐寛寿郎の演じる閻魔大王の裁き(閻魔大王こそ、すべてを知っている)へと集約されていくといえそうです。ここで「すべてを知っている」とは、単に何をしたか、だけではないように感じます。何を使用にも、そのすべてを他者に「知られている」ことの不自由さの連鎖は、思考まで含めて、すべてを不可逆的な一本道、ある宿命的なものへと、天知を導いているように思えます。細い管に入り込んでしまった蛇が、その出口に取り付けられた刃によって、体を縦に切られても、なお前進するという感じでしょうか(ところでこれって本当なのか?)。

実際天知の地獄への道行きは、天知の力で押しとどめられるような種類のものではありません。むしろ、どこまでも運命に翻弄される天知は、地獄にはあまり似つかわしくない人間なのですが、宿命が、映画が、無理矢理地獄に落としていく、という感じですらあるのです。

宿命が、映画が、つまり、宿命=映画が、とは、映画が、ある時間を単調にただ進み続ける装置であることと深く関わっていると感じます。更に、そこでは、連続性と宿命性と同時に、ある異常な場所へのジャンプ、恐ろしく強力なジャンプも、中川信夫の映画では見いだすことができます。「地獄」だけではなく、芝居と現実、生と死の混在している奇妙な場所への滑り込みと、宿命的で不可逆的な前進については「怪異談生きてゐる小平次」見ればいいのだと思います。売れない役者の小平次は、幼なじみの人妻に横恋慕し、やはり幼なじみのその夫である劇作家に殺されかかり、殺された振りをして逃げていく夫婦を追い続けるという話です。つまり小平次は物語的には「生きている」。しかし、映画の冒頭から、すでに亡霊のような小平次は、あまりに簡単に幾度も「殺されすぎる」。生きていても簡単に殺される小平次は、死者と生者の、中間的な存在です。生と死の中間性から、俳優としての小平次は更に、現実と芝居の中間性も纏っており、小平次を交えて、劇作家とその妻は「芝居ごっこ」のいくつかのシーンは、それ故にとても刺激的です。勿論、映画自体が、すべて演技としてもあるわけです。そうしたすべての中間的なものが入り交じって、奇妙な場所が出現する。そこへとひたすら映画が向かっていく。

問題は、なぜそんなところへ向かう必要があるのか、という核心の部分です。それが、映画だから、というのが一面正しい回答なのでしょう。しかし、それが映画だと言い切る確信は、どこに生まれるのか。

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BGM : The Four King Cousins「Introducing...」

ジャケ買い。ガールズ・コーラスグループ。たゆたう春の夢。少しエロティックです。

昨日は仕事のあとに日仏でジョン・グレミヨンの「燈台守」を鑑賞。これは奇妙な映画です。

燈台守の父と息子。沖の島にある閉ざされた燈台のなかで、狂犬病の発作を起こした息子。嵐の夜、父親は仕事の使命感から、息子が閉じこもる燈台のてっぺんへと向かう。燈台に火をともさなければならない。しかし息子は、押し寄せる波にも、光にも、そして父親の存在に過敏に反応し、父親が近づくと襲いかかる欲望を抑えられなくなっている…。一方、嵐の中で、明かりがともらない燈台を、残された燈台守の父と息子それぞれの妻が、見つめていた。新聞の記事で自分の夫が狂犬病の犬にかまれたことに気づいた若き妻は、夫の身に何か起こったのではないかと不安に駆られていた。って話です。

燈台という、美しく光を放つ機能を内包した装置が、罹患し、そこから回復できるかどうか、という映画としても見ることが出来る気がします。しかし、映画としてもっとも魅惑的な美しさをはらむのは、錯乱した息子の、光に満ちた、どこかエロティックな夢にあるのです。

美しさは、灯台守の父息子の家のある村の、豊かな自然、美しく穏やかな生活の中にも見いだすことが出来ます。それは調和のとれた世界のイメージであり、その調和のとれた世界と荒れる海との接点が燈台である、と見ることも出来そうです。そのある種調整機能を担う燈台が罹患し、別種の錯乱に満ちた美しさを帯びてしまう。

病の映画。映画がある種の病から回復する。しかし、病それ自体が映画の美しさでもある。グレミヨンの映画の奇妙さは、そういう確信を、密かに、映画史の中に紛れ込ましていることなのかもしれません。1928年のサイレント映画です。

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THE ZOMBIES「begin here」。T2「サマータイム」が絶品です。ほか、名曲揃い。T1「ROAD RUNNER」から泣きますね。

biosphere「dropsonde」

ノルウェーアンビエントエレクトロニカ・シーンを代表するミュージシャンらしい。こうした音楽に対し私は、如何に単に「気持ちいい」との「ずれ」において「居心地の悪さ自体が引き起こす知と快楽」のせめぎ合いを期待しているのだと思います。これは、別に気持ちよさを否定するのではなくて、私が、私の病として、気持ちよさだけではどうしても足りないからです。しかし、他方で、その気持ちよさだけでは足りないことは、とても大事なことだとも考えています。そこには、可能性への問いかけが、内包されうるからです。ここではないどこかへ、という欲望は、そこにおける「ここ」と「どこか」を思考させる知を起動させつつ、進むのです。

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BGM : Giuseppi Logan「The Giuseppi Logan Quartet」/「More」

脱力しながら脳をひっかく系(笑)ああ、わけがわからない。でも好きですね。

テレンス・マリックの新作は、ヒットもしていないし、映画好きの友人の中でも、今のところ芳しい評判を聞かなかったものですから、あまり期待しないようにして見に行ったのですけれど、やー、良い意味で裏切られました。これは必見だと思います。
http://www.thenewworld.jp/

ニュー・ワールド=新しい世界は、3人の主要な登場人物たちそれぞれに、別々に訪れます。コリン・ファレルは、インディアンの世界に、彼がそれまで属してきた世界とは異なる美しさを見いだす。逆にコリン・ファレルを愛したインディアンの王の娘クオリアンカ・キルヒャーは、それをきっかけに白人社会を新しい生きる場所としていく(ただし、彼女は白人社会に順応しながらも、コリン・ファレルのように、彼女が元属していたインディアンの世界を否定したりはしない)。クリスチャン・ベールクオリアンカ・キルヒャーとともに、開拓後のアメリカで、新しい美しい世界を開拓者として作り上げていく。

それぞれが美しい、新しい世界でありながら、しかしそれぞれの間には、原住民との殺伐とした戦いや簒奪があり、それが3者の唐突に切り替わり重なり合う内面の声(彼らはそれぞれ美しい世界を求め、愛するものを求めるのだけど、結果的にその「世界」はどこかかみ合わない)の間に生々しく横たわっているわけです。

それは、「アメリカ」が忘れた歴史観だと言えるでしょう。アメリカには、インディアンの、開拓者の、そしてそうしたすべてを越えて人を愛そうとする女性の、それぞれの「天国の日々」があった、そしてそれは破壊されたり、忘れ去られたりしたのだということです。(開拓者の見いだした美しい、新しい世界も、もはやアメリカにはどこにも残されていない)

物語的な連結ではなく、まるでプライベート・フィルムの断片のような、カットつなぎ。そこには、はかない美しさがその一瞬一瞬に宿っているように感じます(ジョナス・メカスなども思い出します)。それを破壊するのは、ではなんであったのか。インディアンの世界を侵略し簒奪する白人たち、というのもあったでしょう。しかし、それだけではなく、美しい新しい体験しながらすぐに夢ではないかと一種の否定してしまうコリン・ファレルの内面の声(西欧社会に属する、簒奪者側に属するという絶望)や、愛する存在の消失(死であれ失踪であれ)が、まずはあったのではないか。大きな簒奪の歴史だけではなく、身近なものもその「新しい世界」を裏切るのです。そこに3者の主要人物たちそれぞれの「新しい世界」の、人間的な痛みがある。そしてそれぞれが共存できないまま、ただどれもが美しいものとして、一つのフィルムになっているのです。

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加藤泰はアンチ・ヒッチコリアンなのかもしれません。落下=死から、落下こそ、変転、新しい生の契機として、提示される。しかし、落下は単純に死を生むものでもあり、そこに強烈なゆがみが生まれてもしまう。

「喧嘩辰」の、人力車からごと橋から放り落とした喜美奴(桜町弘子)に一瞬で恋をする辰(内田良平)/落とした辰に惚れる喜美奴、なんて、ちょっと信じがたい物語の展開も思い出します。あるいは、「剣難女難」で黒川弥太郎が川底を走り出すとき、どれほど物語が生き生きし始めるか。落下した先にこそ、生がある。それは零落とか、そういう意味ではなくて、単に、死の可能性もはらんだ落下を経由して、新たな経路を見いだしているというか。

「みな殺しの霊歌」は、純朴な青年の飛び降り自殺がきっかけとなり、連続殺人が起こり、そして最後、同じ場所から犯人の飛び降り自殺をするという結末にたどり着きます。そこに至る過程、苛烈な、なぜ純粋で美しい青年は死なねばならなかったのか、という問いかけと、それを引き起こしたもの立ちへの激しい否定は、男性が女性にレイプされても、自殺なんかはしないだろうという予断に対し、美しいものが存在した可能性を、徹底的に犯人=佐藤允が戦いのなかで突きつけ続けていると言えるでしょう。それは、どこか「喧嘩辰」の無謀な戦いとも通じながら、加藤泰の世界を構築します。そこでは、常道ではない、新しい、行き進むべき道が示され、そして、それは過酷ではあるけれど、肯定せざる得ない強さをもっているのです。

「陰獣」は、探偵に対し、犯人が対決を迫る、という物語が、知恵比べから、別の苛烈な戦い、男女の愛の物語(謎解きが、快楽と愛へと変化していく)につながっていくのでした。ここでも、寝室の窓と、家の裏に流れる河は、奇妙な横道を作り上げ、殺された男の死骸を、予想外のところへ流していくのです。そうした別の道を、探偵が見いだしたときには、すっかり探偵は犯人を愛してもいる。ここに、加藤泰の映画の戦いがある、という言い方も出来そうです。

加藤泰は、何かを否定しているのではないのだと思います。ただ、全く別の道を示し、そのこんな道に進んでいく、しかもファンタジー(別世界)としてのどこかではなく、逃避行でもなく、落下し落ちた、その世界から、やや下方にある、別種の脈の上を、です。そこは死にも近く、混乱や、幻想にも近いけれど、しかし生き、走り抜ける現実と一歩しか離れていない場所でもあるのです。

ああ、そうした地脈を得るために、加藤泰はカメラを地に近しく結びつけたのか、とか、いい加減なことを言いたくなってきた(笑)

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ハナレグミ「hana-uta」。しっとりだなぁ。この編曲での「そして僕は途方に暮れる」を歌いたい(笑)うまく歌えないだろうけど(笑)T1「家族の風景」も名曲。はずれないね。人気があるのも理解できます。

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BGM : Jon Rose「The Violin Factory」

おお、素敵なジョン・ローズHPを発見!いやん(笑)
http://www.jonroseweb.com/

バイオリンで中国旅行。何ゆえに横断するのか。ばかばかしくも鮮やかなフィクションとして。飛行機に乗れないラース・フォン・トリアーアメリカを夢想するように。あるいはフランツ・カフカが、まだ見ぬアメリカを小説としたように。

ジャック・ドゥミの「ローラ」をようやく見ました。美しい映画です。ヌーヴェル・ヴァーグとよばれる作家たちの、初期の作品としてジャック・ロジェの「アデュー・フィリピーヌ」と同様、多くの人の愛情を受けている作品です。ずっと見る機会を逃してきたので、今回はじめてみることが出来て、素朴に嬉しい。

この映画では、誰もが、ひとつの場所に一時しかいられない宿命におかれています。誰も彼もが旅に出てしまいます。誰も彼もが落ち着かなく、動き続けます。その運動が、小さな田舎町の中で、くるくるといくつかの場所でであったり別れたりする人々の、関係性を構築します。それはいずれ別れ行く、旅の途中ではないけれど、人生のある途中、偶然ともにした人々の、淡くはないけれどもはかない関係性です。

カメラは出会っては、背を向けて別れていく人々の運動を追い続けます。スコープサイズの画面の左右に、分かれていくこともあるでしょう。あるいは、道をすれ違って、再会を約して、そのまま別方向に歩いていく。では短い、ともにいる時間はどうか。彼らは、その短い時間において多くは、円形の運動を取ることでしょう。なぜなら、それはもっとも自然にカメラの前を横切り、再び自然にカメラのフレームの中に戻ってくる運動だからです。彼らは、ともにいて、じっとその「ともにいること」を共有できない関係性を生きています。やや噛み合わない、一方通行の思いを、ただ相手に早口で投げかけて、目くるめく思いのままに話し続ける。唐突さで。それでもそこには美しく暖かい人間的なものが満ちています。しかし、セシル=ローラの息子へのお土産のトランペットは、幼馴染の青年と水兵の二人から、無意味に重複して送られもします。

物語も、アヌーク・エイメの少女時代を想起させるダンサー志望でアメリカの水兵に恋をする少女が、同名のセシルであったり、その少女セシルの母親がセシル=ローラのような元ダンサーだったり、アメリカに去る水兵と、一方でどこかから戻ってきたその水兵によく似た大金持ちの男が現れたり、などなど、円環状にリンクしながら、最後に、唐突とも思えるハッピーエンドにおいて、円環を閉じてしまうのです。

その美しさ、鮮やかさ。オアックス・オフュルスにささげられた運動の映画です。しかし、それよりも2倍速で、3倍速で。それがジャック・ドゥミの、オフュルスへの愛情のささげ方であったように思えます。

ただ、この美しさ自体は、反復をすればいいというわけではないのでしょう。そこにドゥミの抱え込んだ難しさも逢ったのかも、と、想像します。それは、もう少しドゥミの映画を見たところで、考えていきたいところです。

ミシェル・ルグランの音楽、すばらしいです。アヌーク・エイメが歌う、彼女が演じる「ローラ」の歌が頭から離れません。そして、キャバレーの女たちのダンス。美しいのです。

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昨日は渋谷シネマヴェーラ加藤泰の「風の武士」と「瞼の母」を鑑賞しました。

「風の武士」で思ったのだけど、加藤泰において、小高い山の上に人々が向かい始めると、秩序が一挙に回復されたりするのだよなぁ。川への落下が、戦いや死、結果としての混乱、物語の流動化を誘う契機だとすると、丘や山は、それらの混乱を収めるための場所である。そうした形でそれぞれの場所がある特別な意味を持つとき、登場人物たちは、時に山の斜面を駆け下りて、対決のために谷底で向かい合う必要とかが出てきます。だから加藤泰の俳優たちには、無茶な脚力が要求されるのだと思います。

それから「瞼の母」。加藤泰版番場の忠太郎では、江戸に来てからもぎりぎりまで、母親が誰かわからない。木暮実千代演じる母親に巡り会うのは、何か手がかりがあって探したというよりも、偶然なんですよね。で、まず泣けるのは、その手前の段階。手がかりが無く、母親を追い求める中村錦之介は、誰も彼もが母親に見えてしまう。だから、母親の年齢に近い女性には、世間に下げずまれているような立場であろうとも、真心から接していく。三味線引きの老婆に、声を掛けるシーンとか、泣けるのですよ。ちょっと多めの銭を手に握らせて、中村が立ち去ったあと、人間的に扱われたこと、畳のある言葉を交わしたことに、老婆が時間差でこみ上げた思いに瞼を押さえるシーン。ああ、思い出しても泣けてきた(笑)それから老夜鷹との対話も泣けました。息子の供養に行くという老夜鷹に、金を差し出すシーンとか。中村にとって、母親=可能性は世界に偏在しているのだと思うのです。すべての、弱く老いた女性たちに、瞼の母を見いだしていく。そこにおいて、加藤泰の映画は、この定番の物語を、どこか流動的な、潜在的な可能性に満ちたものにしていくのだと感じます。

そして、再開。ここではシネマスコープの構図において、焦点の逢う幅の狭さを逆手に取り、長回しの中で奥から手前へ手前から奥へ移動させながら、ピンぼけのスペースにも人を配して、語り合いながらもすれ違う母と子の関係を繊細に演出したりしています。まあ、有名なやりとりなんだけど、その演出のさえもあって、やはり当然のように泣きに泣いてしまいます。

映画のラストは、やくざの道に中村=忠太郎が戻っていくわけですが、そこにおいて、一度子供ではないと否定された忠太郎が、「瞼の母」=潜在的に世界に広がる母親なるもののイメージを取り戻していることも見落とせないところです。そもそもこの映画は、記憶していないものを思い出そうとする、という奇妙な矛盾を「瞼の母」という言葉に象徴させた映画なのですよね。それが、様々な事態を引き起こすのです。感動的ないくつかの場面を生み出すその「瞼の母」なるものが、木暮の否定によっていったん失われてしまうわけですが、もう一度追いかけて、その名を呼び続けることによって、「瞼の母」は復活する。今度は中村=忠太郎が、しがらみから人を大勢切って捨てたあとであり、もはや堅気に戻れぬ中村=忠太郎は、その声には応えられないのですけれど、背を向けて江戸を去っていく中村=忠太郎が、しかと瞼を閉じて母親の(今度は実像を伴った、しかし同時に失われた)母親像をイメージしているシーンがありました。そこにおいて、映画は、その本質的な可能性を、保持し続けるのだと思うのでした。

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ブロークバック・マウンテン」は、大いに期待してみたのだけど、更に期待を上回る面白さでした。アン・リーは「楽園をください」でもそうでしたけれど、アメリカにおける大文字の歴史とも、またその批判的な反転とも違う、隙間のような場所で生きていた人々の歴史を、その息づかいとともに復権させようとしているかのようです。といっても、その歴史観自体は、多分にフィクショナルなものなのですが、むしろそのフィクションこそが、見落としてはいけないのに見落とした本質であったのかもしれない。それが、映画「ブロークバック・マウンテン」において、確かに存在するし、生々しい記憶のある場所でもあるのだけど、同時に遙かに遠い(もはや取り戻せないのかもしれない)ブロークバック・マウンテンという場所の象徴するものかもしれません。
http://www.wisepolicy.com/brokebackmountain/

1960年代半ばに出会い、肉体関係を持ち、それぞれ結婚もしながら、20年間、愛を交わしあうゲイのカップルの物語です。それを2人のカウボーイにするあたりが、うまいのだと思います。失われていくカウボーイの世界を巡る映画は数多く存在していて、この映画もその一つには連なると思うのですけれど、そのこととブロークバック・マウンテンという場所の象徴性は、深く関わっていると思います。ブロークバック・マウンテンは遙か遠くで、そこにたどり着けない2人は、年に数回逢瀬する以外は、「普通の」結婚生活を送るしかないのです。しかし、他方で、年に数回の逢瀬は、ブロークバック・マウンテンが確かにあること(あったこと)を確認する契機にもなっているように思います。その生々しさと結婚生活のリアルとの連続が、この映画独特の居心地の悪さ(物語の生々しさ)なのだと思います。

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「闇打つ心臓」

長崎俊一監督の最新作です。

20年前に撮られた8mm映画の映像が鮮烈なんですよねー。強く若くて。その「20年前の/8mmの若さ」に対しての「いまの/俳優の/35mm の/ビデオ映像の若さ」があり、もう一つ「20年後たったこと(もう若くはないこと…俳優も監督もプロデューサーも)」とがあって、それぞれが交互 に接続されるのでした。そして、子供を殺して逃げるカップルという不可逆な事態から逃げ続ける2組のカップルの出会いを通して、映画は1つの「青春映画」として、海へ向かうのでした。室井滋が「また会えるかな?」と内藤剛志に向かってつぶやくとき、その言葉はこの映画の複数の層全体に響き渡り、映画のラストに呼び出された、狭い窓から裸体の背中を逆光にさらして、旅館の窓から朝日を臨む20年前の室井滋内藤剛志の美しさを呼び出すのでした。

映画は、どれほど残酷な事態を描いていても、若く美しい。また、会えるものならば逢いたい。しかし、とはいえそれに対して、何らの距離も抱かなくていいわけでもないのです。その距離の痛みを抱えつつ「また会えるかな?」と言うことに表明されていること。それは映画を巡る、最後まで失われない若さなのかもしれません。あるいは、失ってはいけないもの、というのかな。

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亀も空を飛ぶ

トルコとの国境沿いにあるクルド人の村が舞台。イラク戦争が始まる前から終わるまでの話。地雷掘り起こしをしながら(国連に販売して売ることが出来る)、逞しく生きる少年たちの姿が描かれる一方で、イラク兵に両親を殺され、自身も犯され、その時に身ごもった幼い息子を抱えた、まだ10代半ば前の難民の少女の、拭いがたい絶望と憎しみが描かれます。地雷堀のリーダーの少年は、少女の気を引くため、池の底で金魚を探すのですが、それはこの世界の底から希望を探していると言い換えられるのでしょうね(ロバート・ワイアットの「Ship Building」が頭をよぎるなぁ)。けれど、結局見つけ出すことが出来ません。最後に届けられた金魚も、色を付けただけの偽物でした。代わりに、まったく別のものを池の底に見いだしてしまうのでした。

子供たちの逞しさの中に、希望はあるのですよ。けれど、その希望に対して世界の現実の生々しい傷は、イラクが戦争に負けてアメリカ兵が来ても、癒されるどころか新たに増えていくばかりなのでした。子供たちの多くは、手足を失っています。周囲は地雷に囲まれた世界で、鉄条網の向うではトルコ兵が銃を構えて監視しています。この舞台となる村は、一つの村の中央に国境が通ってしまっているため、たとえイラクが解放されても、この村の開放とはならない、ということなのでしょう。

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big river

何もない場所=砂漠=ワイルドウエストを、映画を通して知り、旅をする日本人青年テッペイ(オダギリジョー)と、アメリカで消息を絶った妻を探しに来たパキスタン人アリ(彼の故郷、パキスタンでは、砂漠は生活に近い場所だったろうと想像するが、同時にイスラム圏の人間にとって、アメリカは敵意ある地であり、敵視する地でもあるだろう)、そしてアメリカの西部の貧しい白人として閉塞感を生きているサラ(クロエ・スナイダー)。偶然であった3人の友情を通して、ホークス、フォード、ヴェンダース(「パリ、テキサス」)やジャームッシュ(「ストレンジャー・ザン・パラダイス」)といった固有名詞と深く結びついた映画としての美しきアメリカと、アメリカの現実(911以後。レイシズムや貧しさや)と、その2つの間における友情や愛情の可能性と。

お行儀の良い映画だとは思うのですけれど、でも志のある作品でもあります。カメラマンと脚本家が同じ、とか、志を感じます。きれいですしね。

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「そして僕は恋をする」が、改めて見直しても(今回が多分4回目だと思うのですが)非常に面白いのは、元々この映画に盛り込まれた情報が大量である上に、どの登場人物の比重を高めるかによって、その様相を大きく変える映画だからなのかも、と思いました。今回、マリアンヌ・ドゥニクールでも、マチュー君でも、ジャンヌ・バリバールでもなくて、エマニュエル・ドゥボスが私にとって比重の高い存在になったのは、私のいまの年齢の問題でもあるだろうし、また「キングス&クイーン」を見た上で見直しているからでもあるのでしょう。とはいっても、それはマリアンヌ・ドゥニクールや、マチュー君を、比較して軽くしたというより、何回かこの作品を見てきたのにもかかわらず、それまでどこかやっかいで消化不良な対象として括弧にくくりがちだったエマニュエル・ドゥボスを、やっと再発見できた、というだけかもしれません。光の当て方で様相が一変するこの映画の新しい側面を見つけた、というのは、他の側面を弱めるのではなく、同時にそれら複数の層を見ることの大事さをつきつけるのだと思います。

今回「魂を救え!」と2つの作品を通じて思うのは、デプレシャンの世界にちりばめられた血痕や無数の傷跡なんですよね。それらは、必ずしも、現実の痛みと合致しているように思えない、無意味なもののように現れる。といって、まったく無関係とも思えない。そんな不気味な傷だらけの世界の傷が、映画を奇妙な方向に加速させもしている気がします。

そういえば、「魂を救え!」のラストは、傷口の偽装というモチーフも登場しました。あのあたりが、何かのヒントになるのかもとも思います。

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長い見送り
キラ・ムラートワの「長い見送り」を鑑賞。これはすごいです。揺れ続ける母親のイヤリング、神経質な動き、それとは別に、世界のそこかしこに広がる、様々な運動、動物(犬)や人々(子供たちも印象的だが、それだけではなく多くの大人も)の、決してまとまらない動き。それらを、同時にカメラの中に納め、あるいは切り返しのカットの片隅に納めて、世界の様々な揺れの中で、思うようにならない世界にいらだちを隠せない母親と、そうした母親との生活にすっかり嫌気のさしている息子の、微妙な関係を描き出していくのでした(母親は、夫にされれており、遠方で研究職をしている父親の元に、息子はいきたがっているが踏ん切りがつかないままでいる)。

犬に靴を取ってこさせるシーンでは、それまで関係の無かった遠くでブランコを揺らしている子供たちのもとに、靴をくわえた犬が走り近づいていくことで、母親のどこか狭量な世界はいきなり広がりを帯び、と同時に、靴は彼女の元へは戻らないことで、彼女の開かれない狭さはそのままにされてしまう、そうしたシーンの、考え抜かれたカット割り。犬をなでる少年と少女の手が、ふれあうかふれあわないかする官能。息子の手紙を盗み見た母親が、慌てて消しそびれたたばこが引き出しの中でくすぶり、引き出しを引いたとたんに燃え上がるシーンの鮮やかさ(その光の鮮やかさは、部屋を暗くして、父親が息子に送ってきたスライドを、母親が盗み見ているしーんと引き続きで、白い扉をスクリーン替わりに投射しているのだけど、それが扉である以上、いずれ開けられる予感の中にあって、案の定息子は戻ってきてしまう。そうした世界の危うさが、さっと炎となって、別種の形で立ち現れる。母親は、ひとしきり息子の裏切りをなじるが、息子が旅立つことをついに(強がるように)認める。

白眉は、やはりラストのパーティとコンサートのシーンですね。ソ連らしく、労働者への表彰式があって、それからパーティ。にぎやかな席で、息子を捜す母親、眼を避けるように身を隠し続ける息子、その痛ましい関係が、しかしそのあとのコンサートシーンで反転されるのです。自分たちの席が埋まっていることに納得できない母親が、コンサート中なのに大きな声で文句をつけ、周りがなだめるのを聞かない。彼女の元からの性格の偏狭さと息子に去られる心のいらだちが、彼女の高ぶりを鎮めない。長回しで、客席の真ん中に立って、息子に手を引かれ連れて行かれそうになるたびに幾度も戻って、文句を言い続ける姿が映し出されます。残酷に、低く、なだめる観客の一人が笑う。その嘲笑の前で、滑稽で、無惨な姿をさらす母親。息子は、そんな母親に、ようやくコンサート会場を出て噴水に座る母親の手を握って、去らないと告げるのでした。どこかフォークを思わせる、優しげな女声の歌がステージからは響いてきています。美しいシーンなのです。

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孤独にいらだち生きていて、世界と折り合いなんてとても付けられない、偏狭な母親とそれにうんざりしながら解放されない息子の姿を追いかけながら、しかしどうしてこの映画は、これほど豊かなのだろうと思います。それは、世界は、無数の振動、運動で出来ていて、人はそれらと結びつきつつ・気づかずにいるからで、だからカメラが、その世界を満たす無数の運動(人間同士の関係も含めた、、、かもしれない)と人間の孤独の残酷さや無惨を、同時に納めることが出来れば、世界は豊かであり、人は無惨であると、同時に言える、でもそういうのは、多分ものすごく難しくて、それが高度に洗練されてなされているのを見て、たぶんびびったのだと思います。

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ジャック・ベッケルエストラパード街」
夫が浮気をしていた(らしい)としった妻が、夫を残してぼろアパートに引っ越し、ミュージシャンの卵の青年やバイセクシャルっぽいデザイナーに口説かれるも、結局愛し合う夫婦なので、元の鞘に収まる、というシンプルな話が、なんでこうも素晴らしい映画になるのか。一つは、電話の使い方。比較的近い2つの地点を結ぶ電話と、その電話のスピードに負けまいと移動する人々の鮮やかな軽やかさが、複数の空間を有機的に結びつけていくのです。夫がレーサーであることは、その空間と空間の結びつきの鮮やかさのための技能なのかもしれません。ちょっと性格は異なるのですが、「7月のランデブー」の水陸両用車なんかも思い出すなぁ。それから、鏡の使い方。冒頭近く、カメラの位置に鏡があると見立てて、ヒョウ柄のドレスを着るショット、それから切り返して、鏡の前に立つ彼女。試着室を出ると、また別の鏡があって、駆けつけた友人は、その鏡の前で彼女にくるりと回るようにリクエストする。カメラ、自分の目線、他者の目線、鏡の前で折り重ねられながら作られる、美しく息づく女性の存在。ベッケルの映画では、鏡に向かって強く美しく向き合おうとする存在は、幸福に近く(鏡に口紅で、宝くじで何を買うかを書く「幸福の設計」の若夫婦なんかを思い出します。「エドワールとキャロリーヌ」でも鏡に向かって服を仕立て直そうとするシーンがあった気が)、背を向けたり、顔を背けたりすると、不幸に近いと感じます(逆に鏡を割ってしまう「穴」、鏡に背を向けてしまう「モンパルナスの灯」…)。

鏡は、理想や夢の、現実との接点としてあって、それは必ずしも実現はせず、場合によっては不幸な現実の吹き出す裂け目のような場所にもなり得る、そんな空間の性質を変質させる一種のギアとして、ベッケルの鏡は、とても有効に機能しているのです。

旦那は本当は浮気してたのではないか、とか、ミュージシャンの卵の青年と人妻の危うい関係とか(夫に一途の純粋人妻のようにみせつつ、あれじゃ誘っているのも同じだろう)とか、さらりと生々しい要素も取り込まれていて、それがまtがベッケルの映画なのでした。ただ、生々しさはまったく重たさではなく、スピード感によってからりと軽やかに仕上がっているのです。

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ジャック・リヴェット狂気の愛
4時間10分フランス語無字幕でリヴェットの「狂気の愛」を鑑賞。

リヴェットは、狂気を、安易な物語とするのではなくて、それがはぐくまれる時間のなかで見出されなければならないとし、だとしたら映画なんて長くても3時間、というところで、生理的に長く感じる4時間という時間であることは、とても大切なのかもしれません。反復される舞台の練習が、緩やかな時間の流れを作り、次第に次第に、物語としてではなく時間の問題として、狂気は進行する。ま、そういうこととは関係なく、リヴェットの映画は長いですが…いや、絶えず「時間の問題」なんだ、ということでしょうか。

(以下、ネタばれ!)

ビュル・オジェのややロンパリの目がアップで映し出されるときのあの危うさはなんなんだろう…眼球が左右に揺れ動く…それが基調となって、この映画全体の、次第に次第におかしくなっていく時間が、刻まれている…というと、ちょっと嘘ですね。彼女は伏し目がちに、むしろ見つめないことで、おかしくなっていく(浮気相手すら、見ようとはしない)。

舞台と、おかしくなっていく夫婦の生活と、、、その反復は、しかしそれだけで閉じることもまた不健康で、だから、不意にジャン=ピエール・カルフォンを追いかけて、路地裏からストーカーしているビュル・オジェが、とたんに探偵映画のサスペンスを生きたり(その確信犯的なカット割りの鮮やかさ!)するのかもしれません。浮気相手のホテルに行くときの、階段を上り、廊下をわずかに行き、またすぐに別の棟に向かう階段を下りる、その一連の動作のなかにあるサスペンス(謎の目的地への鮮やかな移動)。あるいはピストルの生み出す緊迫感を、切り返しのカットによるサスペンスフルな演出で高めるシーン。しかし、カタルシスとなるはずの銃声で、ぱっと引きの画になったカメラワークは、弾丸の行方などあっけなく無視して、放心と緊張の混じった男女が、抱き合って愛の営みをはじめるまでを描く、つまり、また男女の次第におかしくなっていく反復の豊かさへと戻っていく。それは、ピストルで狙われたカルフォンが、手に持ったハーパース・バザールで予告されていた穴かもしれません。ピストルは、夫婦の日常のなかに、しかし、夫とは婦人雑誌のように選択の余地無くそこにあるものだったのです。それはリヴェットの映画の法則のようなものかもしれません。

最近見た映画

4月頃には復活予定だったのですが、気が変わり、ここは閉鎖しようかと思っています。というのも、現在の生活サイクルでは、見た映画について日々記録するにしても、ここで書いてきたテキストのレベル・分量で続けるのはかなり難しいからです。そこで、もう少し、ライトに書ける場所を新たに作ろうかと。具体的にはmixiを使うことを考えています。

決まったところで、一応改めて書き込もうと思っています。

最近観た映画

先週末は、あまり見ることが出来なかったのですが…

DVD発売メモ

神代辰巳監督の作品と、小沼勝監督のとても好きな作品がDVD化される模様。メモメモ。

どれもめちゃくちゃ好きですね。未見の方はこの機会にぜひ。

あ、それと、シネマアートン神代辰巳特集もあるみたいです。正確には調べてくださいね、間違いがあるといけないので。以下、ネットで拾ってきたスケジュールです。

シネマアートン下北沢神代辰巳特集 part2 映画館は濡れた…』
5/6(土)〜6/9(金)

  • 第一週 濡れた人生  5/6(土)〜12(金)
    • 『かぶりつき人生』('68)15:30
    • 『濡れた唇』('72)17:20
    • 『一条さゆり 濡れた欲情』('72)18:50
  • 第二週 大正から昭和へ揺れ動く  5/13(土)〜19(金)
    • 『女地獄 森は濡れた』('73)15:30
    • 『四畳半襖の裏張り』('73)16:50
    • 『四畳半襖の裏張り しのび肌』('74)18:20
  • 第三週 哀しく、愛しく  5/20(土)〜26(金)
    • 『恋文』('85)15:00
    • 『悶絶!! どんでん返し』('77)17:10
    • 『嗚呼! おんなたち 猥歌』('81)18:40
  • 第四週 青春の漂流  5/27(土)〜6/2(金)
    • 『青春の蹉跌』('74)15:00
    • 『アフリカの光』('75)16:40
    • 恋人たちは濡れた』('73)18:30
  • 第五週 男と女の接点  6/3(土)〜9(金)
    • 『ミスター・ミセス・ミス・ロンリー』('80)14:30
    • 『少女娼婦 けものみち』('80)17:10
    • 『赫い髪の女』('79)18:40

最近見た映画&買ったCD

(最近見た映画)

次郎長三国志はすばらしいです。涙なくしては見られません。特に第5部以降はたまらないものがあります。「ウォーク・ザ・ライン」は期待に反しない、すばらしい出来でした。ジェームス・マンゴールドは、やはり非常にユニークな作家だと思います。更にオフュルスやらコスタやら、充実してましたね、今週末も。

(最近買ったCD)

  • Diskaholic Anonymous Trio「Weapons of Ass Destruction」
  • Miles Davis「Agharata」「Pangaea」
  • Don Cherry「"mu" first part / "mu" second part」
  • NirvanaNevermind
  • Randy Newman「The Randy Newman Songbook vol.1」
  • Captain Beefheart & The Magic Band「Live 'n' Rare」
  • Music A.M.「Unwound from The Wood」
  • Method of Defiance「The only way to go is down」

最近見た映画と最近買った漫画

まだまだペースがつかめていません。4月くらいには復活したいです。

最近見た映画。

HUNTER×HUNTERの最新刊も出ました。良い出来です。20世紀少年とアカギも最新刊発売。安心して読めます。