バタフライ・エフェクト

デッドコースター」の脚本コンビのエリック・ブレス&J・マッキー・グラバーの初監督作品ということで、気になってみてきました。調べたら「ファイナル・デスティネーション」と、続編にあたる「デッドコースター」は、脚本家が別になっていて、あの、無意味としか言いようのないゲーム的な死の連鎖と、ただそれだけで映画が出来ていく(それしか物語がない)世界観は、1,2作目を通じて原案を担当しているジェフリー・レディックのものなのかもしれません。しかし、同時代性も含めて「バタフライ・エフェクト」と「ファイナル・デスティネーション」「デッドコースター」には共通する感触があります。登場人物の思惑などとは関係なくフラットに連鎖していく死が「ファイナル・デスティネーション」「デッドコースター」だったのに対して、登場人物の思惑に関係なくフラットに連鎖していくパラレルワールドが「バタフライ・エフェクト」になっているのです。そこでは登場人物の人格などほとんど重視されていません。個々は素材に過ぎず、死に方も、入れ替わる運命も、調理法のバリエーションに過ぎないからです。

そこに、ゲーム的な要素を見出すことが出来ます。取り替え可能な無数の要素を、分岐によって選び取っていく。リセットボタンによってそれをやり直すことが出来る。しかしゲームを終わらせるためには、別のものであれ、筋書きを生きなければいけない。例えばゲームが一つの結末しか用意していなければ、そこに向かうしかないのです。自由裁量だけではないわけですね。(オンラインゲームなどは、また別の可能性を有するのでしょうけれど。ゲームクリアを目的としないゲームならば特に)

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以下、ネタばれです。

バタフライ・エフェクト」におけるパラレル・ワールド自体は、決して新しい概念ではないのですが、そうしたゲーム的な、等価な分岐の可能性おいて、今日的な映画なのだと思います(分岐されたいくつかの物語が、一つの大きな物語を構築するのではなく、あくまで併置されることが特に)。それは、「バタフライ・エフェクト」の主人公エヴァンが、過去に戻り起こった出来事を操作すると、確かに一度起こったはずの悲劇は消えて無くなり、別の世界が唐突に現れるのですが、その結果、愛した少女ケイリーも母親も友人たちも、全くの別の運命を生きて、別の人格になっていくところに現れていないでしょうか。登場人物たちは、完全に中身から入れ替え可能な素材に過ぎないのです。フラットに連鎖するシミュレーションの世界なのです。

しかし他方、こういう見方も出来ます。悲劇的なケイリーの死や母親の死を回避すべく、幾度も繰り返すエヴァンは、しかし「誰を愛していたのか?」。歴史を変えてしまったことで、考えようによっては、愛した人を殺したも同然だったのではないか?と言えるのです。なぜなら、最初に愛した少女はもう戻らないのです。その意味では、この映画はひどく残酷な映画です。おそらく、この映画でキーになっているのは、歴史を変えられるようになる前の最初の人生、すべて後戻りできない人生のなかで、愛していた少女との約束を守らずに、実家のあった町にエヴァンが戻らなかったことなのです。彼が町に戻るのは、幼いころからの記憶喪失を確かめるためというエゴイスティックな理由でした。そしてその結果、幼い頃の彼女の心の傷を掘り起こしてしまったため、ケイリーは自殺してしまう。そこから、歴史のやり直しをエヴァンは始めるのですが、彼が本当にやり直すべきだったのは、約束を果たすことだったのではないかと思うのです。しかし、それは出来ない。この、最初の約束を果たそうとしなかった意志の不在がもたらすものは大きいと考えます。エヴァンは歴史を変えるたびに自分をも新しい人格や立場を付与され、以前の人生と記憶が二重化、三重化された結果、入り交じった奇妙な存在に変わっていってしまいます。つまり、無数の可能性がある世界でありながら、同時に、世界が無数の可能性出来ていると「気づいてしまった」エヴァンの視点に立てば、それは一回限りのどうしようもない出来事によって続いているのです。その意味では、「ファイナル・デスティネーション」と「デッドコースター」も、「気付き」からスタートする、直線的な映画です。世界には、確かに無数の可能性があるのですが、それに別の視点から気づいてしまった結果、通常とは別種の単線的な世界の相に滑り込むことになってしまうのです。

無数の可能性を持ちながら、同時に単線的な取り返しのつかないものに過ぎない世界。その認識に立つと、
バタフライ・エフェクト」のラストでは、登場する人物全員が、とりあえずは不幸せではなくなるのですが、しかし、おそらく他方で、彼らの運命が変わったためにまったく別の運命を辿った人間もおり、映画には描かれなくとも、そこでひどい不幸や死が追いやられた可能性は否めないことにも気づきます。それは、一つの約束を守らなかったエヴァンの引き起こした事態なのでした。

ところで、これをもっと徹底的に推し進めるとアラン・レネの「スモーキング」と「ノー・スモーキング」の連作になるのだと思います。可能性域としての世界にアプローチする映画ですね。あくまで無意味な分岐によって別れていく無数のエピソードは、それでいて決定的に後戻りできない残酷さも感じさせます。逆にフラットに広がる世界に、緩やかな連携という名の愛を織り込むのがジム・ジャームッシュかもしれません。「コーヒー&シガレッツ」は、特にラストのエピソードを、胸を熱くしてみてしまうのです。いや、これは正確な整理ではないかもしれません。「スモーキング」と「ノー・スモーキング」も、見事に愛の映画だからです。