ピナ・バウシュ / Modern Jazz Quartet

BGM : Modern Jazz Quartet「Django

Django

Django

ああ、お酒でも飲みましょう。安いものですが、赤ワインがあります。

私のCD棚におけるジャズ率は、かなり低いのですが、にもかかわらず、あれ、こんなの買っていたっけ、というのがあったりしまして(笑)、今後ジャズを化いたしていく上で重複がないためにも、こまめに聴いていきたいと思います。聴いて、書いておけば、少なくとも持っていることは忘れないでしょうから。

ちょっと前にピナ・バウシュ ヴッパタール舞踊団(Pina Bausch Tanztheater Wuppertal)の「ネフェス(呼気)」を見ました。

本作を見て、子どものころの遊びを思い出しました。一人遊びで、道を歩きながら、たとえば歩道を示す白いラインの上を安全地帯、それ以外の黒いアスファルトを危険地帯と見て、白いところだけを踏んで歩くという遊びです。落ちたら死ぬ、と思いながら進みます。けれど、私の鈍い神経は、ともすれば白い枠を踏み外しそうになり、何度も落下するわけです。

ピナ・バウシュの舞台のダンサーたちは、卓越した運動神経で、ぎりぎりの場所で踏みとどまって、踊ります。ぱっと思い出すのは、テーブルとイスを使ったパフォーマンスで、テーブルの角を革靴のそこで滑って端から端まで滑り終わったあと、身体の1を戻し呈すにぱっと坐り、勢いよく倒れそうになるのだけれど、そのまま回転して起きあがり、元の位置に戻って、またそれを繰り返す、といった感じなのです。繰り返すごとに、それは寸分違わず再現されます。ダンサーは、その遊びが楽しくて仕方がない、というように、笑いながら演じます。

その卓越した神経とバランスがあるからこそ、架空のルールが、有効にその舞台を支配するわけです。「ネフェス」の場合は、舞台の中央の水たまりです。とても面白いセットで、最初は、天上から降ってくる水が、床の上ででたらめに流れ始めると思ってみていたのですけれど、実はその床に仕掛けがあって、まず、円形に、緩やかに凹んでいて、そこに水がためられるようになっている、そして、水がたまりすぎないように、下から吸い取ることも出来るようになっていて、一見フラットな舞台に見えながら、幻の池がそこに現れたり消えたりするわけです。時には水は滝のように降ってもきます。それだけの水が沈んでいく場所ならば、実は水たまりとは言えません。海でもあり、底なし沼でもあり、そして死に落ちていく穴(とみなされるもの)でもあると思うのです。そこを踏み外したら死ぬ。実際、ダンサーたちは、周到にその周辺で無数のパフォーマンスを、笑いさざめきながら繰り返すのですが、水自体にはほとんど入ろうとしないのです。

しかし、だからこそ、その侵犯が、どのように行われるかが重要となってきます。第一幕のラスト、滝のように水がなだれ落ちる中、水の中に初めてダンサーが舞い入り、踊るシーンは圧倒的に美しいのですが、それは死のようでもあり、生そのもののようでもある、不思議な躍動で、それは子どもの遊びのように、死ぬというルールがあっただけで、本当には死にはしない、おもちゃの銃で撃たれて死んで、起きあがる子どものようでもあるわけです。ただ違うのは、水に侵犯するにしても、ぎりぎりでそれを回避するにしても、卓越した身体を持って臨むという部分です。

第2幕も、前半は周到に避けられていた水たまりへの進入が、後半、複数のダンサーによって侵犯されはじめていくのですが、これは1幕目とは違って、ルールそれ自体の解体も同時に行っているかのように感じます。しかし、すでにあったルールが、唐突に無視されるのではなく、たとえば唐突に挿入される、車道の真ん中で、地面すれすれから捉えた車の行き交う映像(そこに立っていたら人は死ぬだろう)が舞台いっぱいに現れたスクリーンに映し出される短いショットは(あれはイスラエルの映像なのだろうか?…「ネフェス」はイスラエルが初演だったはず。だとしたら、より確かに)水たまり同様の効果を持っていたのではないでしょうか。死のルールが、舞台いっぱいに一瞬で広がったかのようです。しかし、遊びは果てもなく続きます。そこで、ダンサー同士の身体が奇妙に連なった群舞が、ようやく現れるのは重要かもしれません。死のルールは広がり、同時に解体され、そしてそこでやっと、人々が連なるのです。