高柳昌行「カダフィーのテーマ」 / 岩井克人「会社はだれのものか」

今は実は、7/21の23:25です。私は、好んで、日記をでたらめな日に書いているのですけれど、今日は敢えて日付を書いてみました。今、テレビでは、ロンドンでの、2度目のテロの速報をしています。まもなく、ブレア首相の記者会見があるようです。それまでのあいだ、CD棚を見たら目の前にあったので、高柳昌行の「カダフィーのテーマ」をBGMにしています。

カダフィーのテーマ

カダフィーのテーマ

これ、1990年の録音なんですよね。湾岸戦争よりも前です。しかし、湾岸戦争よりも前である、などという指摘は大して意味はないですね。考えてみれば。1980年代も世界のどこかで、ずっと戦争は続いていたわけです。そして、その間ずっと、音楽もあったわけですから。また、それ以後も戦争は続いています。カダフィ大佐が、政治的にも転身を遂げ(遂げざる得なかったのかもしれませんけれど、それはともかく)、アメリカとの協調路線を撮っている現在でも、「カダフィのテーマ」は一定の有効性をもっていると感じます。

岩井克人「会社はだれのものか」を読了しました。7/16の日記でも書いたとおり、前作にあたる「会社はこれからどうなるのか」が基調となる論考だとしたら、その本を出したリアクションをサーチし、かつ現在の状況を加味した、自分自身としての返答が「会社はだれのものか」という書物であるといえます。

会社はだれのものか

会社はだれのものか

「現在の状況」のひとつに挙げられるのは、ライブドアニッポン放送の出来事です。

マスメディアではこの出来事に対し、株主至上主義の風潮に対しての、良識派による少数の肯定(とはいえ全面的な肯定ではもちろんなかった)と多数のアレルギー(どちらを応援するのであれ)が入り乱れた、と私は記憶しています。また、アレルギー部分は、実際にはマスコミによる喧嘩両成敗的なネガティブ・キャンペーンがあったと思います(「おもしろがる」ことですべてを下世話にしていき、ひどくみっともない争いであるかのような外見を作ってしまう、といった感じでしょうか)。

しかし、そんなアレルギー反応の中ではありましたが、岩井氏が「会社はこれからどうなるのか」で書いていたような指摘、簡単に言えば、株を買い占めても、そこにある人材までは買えない、といったしごくまともなことが、声高に繰り返し言われたわけです。もう少し補足して言えば、人的資産が重要なポスト産業資本主義社会では株主主権論はむしろ時代遅れである、という岩井氏の主張通りの主張が、為されていたわけです。だから改めて岩井氏は「会社買収」という基軸から論理を再度整理して「会社はだれのものか」という本を作った、と、自らあとがきで書いています。そうすることで、理論に現実性をもたせようとした、とのことですが、そのスピードが、まずこの本を有効にしているのだと思います。

「会社はだれのものか」で「会社はこれからどうなるのか」にはない基軸を見出すとしたら、主に2つ挙げられると思います。

ひとつは、銀行が今後日本で為す役割として、本当の意味での可能性への投資、人材に対して期待し、担保ではなくそのアイディアに投資する姿勢が必要だとしている点です。新しさ、差別化が耐えず勝負の分かれ目となる、人的資産の重要性は疑うべくもない状況で、銀行は、未だ起業家への投資に積極的な姿勢を見せてはいません。その結果、新しい芽は育まれず、自ら状況を悪くしている、といえるわけです。原理的に、もはや投資は差別化しうる才能にせざる得ない以上、シフトしなければならないだろう、というのが岩井氏の主張だと考えます。

次に「CSR」(会社の社会的責任)。会社が生きていく場所が社会である以上、たとえばそこにいる市民を無視できない。無視できないならば、それと積極的にかかわるしかなく、むしろ、かかわることによってはじめて社会に必要とされている会社として相応しくなる、といった風に整理されるでしょうか?そしてその際には、利益の最大化とは別種の態度が必要で、しかしだからこそ、法人として、会社は社会に認められるのだ、というわけです。たとえば、自社のイメージコントロールのためだけにエコを推進する会社が、そのは以後で環境に悪いことも実はしている、というのは、真の意味での「CSR」ではない、というわけですね。社会に参加する(法)人として間違っているというわけです。岩井氏は、「会社は社会のもの」と断言しています。この断言こそ、株主主権論と最も遠く隔たったところにあると思います。

そして更に、SRI(社会的責任投資)という言葉が、富士ゼロックス取締役会長の小林陽太郎氏との対談で出てきます。これは前述の2つの基軸を併せたところに位置づけられそうな気もします。銀行だけではなく、企業が、社会的な責任において、起業に参画し、新しい産業を構築しながら、全体の日本産業をもり立てていく、そうした資本の流れが(ただ株主に還流されるだけではない流れが)必要なのだと思います。

あと、個人的には、やはり小林氏との対談であった、労働組合の可能性に触れた短いくだりに興味を覚えました。労働組合が、企業別労働組合から職種別、産業別の労働組合へと変わっていくだろう、という予測は、決して新しいモノとは思わないのですが、そこで言われる、組合は人的資産を有する会社にとって重要なステークスホルダーのひとつである、という考え方は、大変面白いと思います。ここに、会社の内部から、市民意識を持って会社を変えていける、そんな原動力に組合がなる可能性も見えてくるように思えるからです。そういえば、うろ覚えですが、ドイツの企業では、労働組合の代表が直接役員会に出て、経営に参画するという話を聞いたことがあります。確か「共同決定法」という法律で、そう定められているとか。これはコーポレート・ガバナンスの弊害を防ぐ上でも、かなり有効な手段ではないかと考えます。