七人の弔(とむらい) / Nam June Paik

BGM : Nam June Paik「Works 1958.1979」

Works 1958-1979

Works 1958-1979

久しぶりに聴いています。深夜ですから。T1「Prepared Piano For Merce Cunningham (1977)」とか、丑三つ時の曲ですよね。マース・カニングハムに捧げられています。実際に踊られた曲なのかどうかは、よく知りません。T2「Hommage A John Cage (1958/59)」はテープコラージュの曲ですが、亡霊の声が響いているようです。T4「Duett Paik/Takis (1979)」T5「Etude For Pianoforte (1959/60)」も、最良のホラー映画のサントラのようです。不定形で、移ろい、意味に還元できないのに、すぐ目の前に強く存在してしまうモノ、を恐れるのは自然なことなのかもしれませんが。テレビやラジオのザッピングを直接イメージさせる箇所が多数あります。私たちはもしかしたら、自ら進んで、そうした貞子が住み着けそうな隙間を、テレビやラジオの中に作り続けてきたのかもしれません。ナム・ジュン・パイクは、だとしたら警告者だったのかもしれませんが、こうした三段論法は、好きだし個人的には面白く、しかもときどき的を射ることがあるとはいえ、ちょっと暴力的な連想ゲームに過ぎないのでした。問題は、真意見出さなければいけない亡霊が、こうした拙速な整理の中で、消え失せてしまう可能性です。恥じらって。

昨日の日記で、選挙に行こう、選択する権利を大事になんて書きましたけれど、ダンカンが脚本だけではなく初監督も果たした「七人の弔とむらい)」は、このままでは親も子も駄目になる状況下で、どういう選択をするか、という物語として、選挙の季節にはぴったりです(嘘)。

ダンカンは、集団自殺がこれほど話題になる前に、集団自殺バスツアーなる奇妙な設定の映画「生きない」の原作・脚本を担当していました*1集団自殺するために人を集めるまではまだ理解できますが、それをツアーにして、無表情のダンカンが引率する。死ぬことは、多くの人にとって恐ろしいことですから、自殺するために集まってからツアーなどしたら、あまりに心変わりしやすいといえます。もちろんそこには、物語を成立させるための設定もあります。保険金を搾取するために、自殺志願者たちは事故死したと見せかけないといけないのです。しかし、だとしても無理がある。不確定要素が大きすぎるのです。自壊しても当然のバスツアー。おそらく、ダンカンは、そこに一種のリアルさ、現代性を感じているのではないかと思います。「七人の弔」でも、この自壊するに決まっているシステムのイメージは、そのまま引き継がれています。

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七組の親子が、ダンカンの主催するキャンプに集います。しかし一目見て、親子でキャンプを楽しむようには見えない一群。実は、親たちは多額の報酬を目当てに、子どもたちを売り払い、内臓を提供するために集まっているのです。しかし、それならばすぐに内臓を抜き取ってしまえばよいのですが、そこがダンカンの映画らしいところで、内臓の検査もかねて三日間のキャンプを本当に行って、三日目の夜までに親が決断し、取り下げることも出来るという救済処置までついているのです。

深刻な犯罪ですから、プロの集まりならファジーなところを残さずに、さっさと実行してしまえばよい、どうも絵空事だ、とこの映画を見て思うのは、あながち間違っていないと思います。けれど前述のように、おそらくそうした自壊して当たり前のシステムにこそ、ダンカンはリアルさや現代性を感じているのだと思うのです。確かに、この映画に出てくるシステムは、「生きない」同様に無理があるのですけれど、それはむしろ隠喩であって、こうまであからさまでなくても、実は無数の自壊するシステムの上で、私たちは生きているのではないかと思うのです。たとえば年金制度なんて、まさしく自壊するに決まっているシステムだったわけですね。だからいま、見直しが急務なのですが、その上に、何年も乗っかってやってきてしまった。あるいは、事後的に考えればバブルなんかも、自壊するに決まっているシステムだったわけです。ただそれに夢中になっている間は気づけない。外見はきれいに覆われていて、なかなかリアルになっていかないのです。ダンカンは、そうしたシステムを、社会からドロップアウトしてしまった人々に、最悪の状況で再度乗ることを強要しているのではないか、と思うのです(そうして、映画という持続する時間の装置の中で、自壊までの過程を露呈させているのです)。

以下、ネタばれです。

そこには、絶望と裏腹の(破滅的な、自壊してしまえばよいと言う)願望もあり、その願望の中には、可能性もあるのだと思います。破壊するものは破壊しなければその希望は見えてこないのですが、逆にあまりに矛盾が露呈しているために、むしろ破壊しやすい状況にあるとも言えます。壊してくれ、壊れてくれと言わんばかりです。そう考えると、とても教育的な、わかりやすいシミュレーションがここにはあるのかもしれません。

もちろん、殺さなければ殺されていたからとしても、臓器のために子どもを売り払った親を、逆に売り飛ばすことで自分たちが助かる、7人の子どもたちは、恐ろしいと言えば恐ろしい。教訓がそこにあるのだとしたら、殺したり殺されたりする前に、解決できるものはしないといけない、ということになるでしょう。これは、前述の選挙の文脈で言ったことです。

しかし、実際にはそう簡単ではありません。子どもは親を選べない、家庭内暴力を振るう親に育てられた子どもは、その家庭をそうそうは破壊できないわけです。映画では、極限状態に置かれたから選択が出来ました。けれど、多くはその手前で、いつか自壊するに決まっているにもかかわらず、長く続く状況を、生きていかなければいけない子どもたちが多数いると思われるわけです。そこでは、いつか子どもが殺されたり、親を殺したり、子どもが親になったあと、また子どもを苛めたりするのかもしれない。ダンカンは、もしかしたら、だからこそ最悪のシチュエーションを作り上げて、逆に状況を転覆する可能性を示唆したのかもしれません。もちろん、こうしたロジックはかなり危ういわけですけれど。

演出的には、カメラを無意味に振り回したりとか、アイディアが空回りしているところも、部分的には感じてしまうのですけれど、子どもたちを放って親たちがカラオケに興ずるシーンの不気味さとか、ダンカンの突き放したセンスの良さを感じる箇所も多かったのでした。ぬぐいきれない不気味さと、自壊するに決まっているシステム、というと「ある朝スウプは」にも通じる気がします(8/14の日記8/15の日記)。ただし「ある朝スウプは」の場合は、他方で映画を通して恋愛と他者という問題を浮き彫りにする、どこか構成的な巧みさがあるのですけれど、「七人の弔」の場合は、最初のシチュエーション自体が奇妙すぎるために、ひたすら自壊するに任せるような映画になっていると感じます。そこには、映画としてちょっと面白い可能性があると感じるのでした。一度くらい、ダンカンが脚本で、北野武が監督をすると、二者の相違点が作用しあって、奇妙な面白い映画が出来るのではないかとも感じます。

*1:1998年の作品。前年に公開されていた「もののけ姫」のキャッチコピー「生きる」と、私的には対比をなしていたのでした。