白バラ四姉妹殺人事件(2) / 影なき狙撃手 / ジョアン・ジルベルト

BGM : ジョアン・ジルベルト「声とギター」

ジョアン 声とギター

ジョアン 声とギター

T1の「サンバがサンバであるからには」で、もうとろけそうになるのですが、スウィートでもあるし、枯れてもいるし、幸福でもあり、不吉でもある、あらゆる概念の中間を漂うような声とギターは、具体的な感情が様々な歌詞に込められていても、どの方向にも変転しうる大元の魂としてあるかのようで(ああ、大げさだ、言葉遣いが)、それはメロディと言うよりは音の問題であると思えるのでした。ギターと声が、音である地点の怖いほどの豊かさです。全曲はずれなしですけれど、敢えて挙げればT10「想いあふれて」でしょうか。悲哀を歌っているはずなのに、不思議なまでに自然体で軽やかな曲です。

8月もあと数日です。

鹿島田真希「白バラ四姉妹殺人事件」を読了しました(昨日の日記)。

精神分析の構図に当てはめようと思ったら、簡単に当てはまります。どこまでも同一化をし続ける母と娘、その二人が二人して息子(弟)を狂気によって支配していること、男性の不在(死や行方不明)によって象徴的秩序が崩れること、だから男性が帰還する(あるいは到来する)ことであっけなく象徴的秩序がよみがえってしまうこと、弟は狂える母の息子であると同時に男であることによって混乱した状況を唐突に整理してしまう一種の切り替えスイッチのような機能を果たすこと(弟が男性として機能できなかったのは、近親間的な愛情を姉に抱いていた、つまり男性として機能できなかったから)、等々。

しかし、そうした整理は、まさしく男性的な整理であり、問題は、そこからこぼれ、増殖し、象徴的秩序が回復しようが取り返しがつかなくすでに起こってしまっている狂気(あるいは女性性そのもの…従ってそれは正気の一部としての狂気で、だからこの小説に出てくる女性たちは、混乱している一方で思考それ自体はいつも明晰なのですが)と、その連鎖にあるのだと思います。どこまでも同一化を繰り広げながら増殖していこうとする「女性」に対して、「男性」は象徴的秩序を持ち込むことで対抗する、しかし二者は相互に求め合う者たちでもあって、かみ合わないまま、愛し合うのも呪いあうのも同じかのように共にいるのでした。

この<母親=恋人の無秩序な増殖>を、そういえば最近、映画でも目撃しました。ジョン・フランケンハイマー監督の「影なき狙撃者」です。この作品は、今年公開されたジョナサン・デミ監督の「クライシス・オブ・アメリカ」のオリジナル版です。残念ながらデミのバージョンは見逃してしまい、大変後悔しています。「影なき狙撃手」はDVDで見ました。

クライシス・オブ・アメリカ スペシャル・コレクターズ・エディション [DVD]

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朝鮮戦争当時、共産主義陣営に拉致され洗脳された兵士ショー(ローレンス・ハーヴェイ)は、キーワードによって催眠状態に陥り、その後ダイヤのクイーンを見せられると、命じられたとおりに殺人を行う暗殺マシーンとなってしまいます。同時に拉致され、やはり洗脳によってショーが戦場で英雄的に活躍したと思い込まされているマーコ(フランク・シナトラ)は、情報局の将校なのですが、催眠術で奪われた記憶が夢となってよみがえり、毎夜苦しめます。その夢の中では、ショーとマーコ、それから仲間の兵士たちは、アメリカの片田舎で園芸家たちの発表会を聞いているはずが、品の良い婦人たちの姿が突然各国諜報部の人々へと変わり、ショーに殺人を命じ、仲間の兵士を殺させるのです。マーコの記憶の中では、ショーは小隊のメンバーを救った英雄のはず。しかし、あまりに不気味な夢を見続けるうちに、自身のその記憶を疑うようになります。そして調査を開始するのでした。

一方、ショーは、単細胞な右翼政治家の義父ジョン・アイスリン上院議員(ジェームズ・グレゴリー)と、その義父を操るやはりウルトラ右翼の母親(アンジェラ・ランズベリー)を嫌って、家を出て、ニューヨークのリベラルな新聞社に勤務します。彼は、やはりリベラルな政治家で、義父の政争の相手でもある議員の娘と恋仲になったのですが、母親の介入で無理やり別れさせられた過去があり、心に深い傷を負っていました。その過去が、彼を右翼的な父母の抑圧に反発させたのです。

以下、重大なネタばれです。

この映画は、物語だけ見ると穴の多い作品ではあって、ウルトラ右翼の母親が、実は共産スパイで、言いなりの夫を大統領にすることで米国を支配しようとしていた、という設定は、いささか突拍子の無いものです。しかし、にもかかわらずこの作品が異常な緊張感を湛えるのは、ダイヤのクイーンに象徴される「母なるもの」の不気味で凶暴な支配こそが、この映画の真のモチーフで、更にそこから政治的な部分に遡行すると、共産陣営も反共陣営も、その凶暴なる母の支配に紐付けられ、ほとんど区分けのつかないものとして提示されているからです。

マーコが繰り返し見る悪夢は、老婦人の主催する園芸発表会なのですけれど、その老婦人が彼らに殺人を命令すること、そしてその殺人のキーとなるのがダイヤのクイーン(女王)であり、それを操るのがショーの実母である、といったことを考え合わせると、それらは密接に結びつき、共産スパイの陰謀といった表向きの物語とは別種の強さで、明確な構造を映画に与えるのでした。

母親から、一時的にショーを奪う恋人は、たまたま催眠状態のショーのところに、ダイヤのクイーンのコスプレをして現れています。これは、たとえ仮装パーティという設定があったとしても、偶然が過ぎるのですが、凶暴な支配する母の物語として置き換えていくと、ショーを支配し命令する女性=女王次第で、ショーが良くも悪くも変わる、その主体のなさがここで示されているのだと思います。だから、ショーはあっけなく結婚したばかりの妻を、母親の命令のままに殺してしまうのです。また、主体的な意見を発言する男性陣(妻の父親であるリベラルな政治家や、恩義を受けた新聞社社長)が、次々とショーの手で暗殺されていくのも見逃せません。(妻と、妻の父親をショーが殺害するシーンは、この映画中の白眉のシーンで、緊迫感に満ちているのですが、それはその行為が、あまりに自然になされるからなのです。彼は、完全に殺す相手が誰かを認識しており、憎んでもいないにもかかわらず、母の命令がすべての上位に立つがゆえに、なすべきこととして暗殺を行うのです。)

その意味では、ショーだけではなく、アイスリン上院議員も、シナトラ演じるマーコも、主体的な意見を持つ人間ではありません。マーコに接近するローズ(ジェイソン・リー)を、私は最初、共産スパイの一味なのではないかと怪しんでいたのですけれど、実際にはそうで無いからこそ、不気味なのです。なぜなら、明らかにマーコは、ローズの後押し(思考の中心に、洗脳で刷り込まれた「老婦人」ではなく、ローズをインプットすること)によって、ようやく開放されるからです。つまり、マーコもまた、たまたまローズに出会ったことで救われただけで、その主体は危ういままだからです。

そのことは、マーコがショーを母の支配から開放する際に、母なるクイーンを廃するのではな52枚のクイーンをショーに見せ、母なるクイーンを無数に分裂させることで、命令形態を破壊するところからもわかります。無意識にマーコは、母親に成り代わって、矛盾する複数の母の命令とそれによる混乱をショーに与えるのです。

以下、映画のラストのネタばれです。

映画のラスト、ショーが母親の命令に従って大統領候補を暗殺に向かいながら(母親の目論見では、大統領候補が死んだときに、副大統領候補の夫が感動的な演説をして、有権者の心をつかみ大統領候補に繰り上がる予定だった)、結果的に自らの母親と義父を射殺し、自らも命を絶つのは、彼が解放されなかったからだといえるでしょう。

狂った母なる存在の支配だけによって動く世界を作る、そこでは男性は傀儡に過ぎず、意味など思考せずひたすらモノローグのみを声高に叫ぶ存在になる…と書いていくと、この映画が反共映画に程遠いことも見えてきます。その射程は、右も左もなく、むしろ、今日のアメリカと日本の状況に、怖いくらいに合致してしまうとすら言えるのかもしれません

…やはり、ジョナサン・デミの「クライシス・オブ・アメリカ」を見そびれたダメージは大きいですね。映画版の公式HPも見つけました。