ジョアン・ジルベルト(2) / チーム★アメリカ ワールドポリス

BGM : ジョアン・ジルベルト「AMOROSO & BRASIL」

Amoroso/Brasil

Amoroso/Brasil

「AMOROSO」と「BRASIL」という2枚のアルバムが2in1になっている、ジョアン・ジルベルトのアルバムです。T1「'S Wonderful」からT2「Estate」の流れがすごく好きです。晩夏の早朝に最適です。T4「Besame Mucho」T5「Wave」といった曲が、オーケストラの奏でる心地よい音の前で流れ始めると、ささやきとしての歌・声とオーケストラとの異常な関係の美しさが心地よいのです。T8「Zingaro」とかも、布施明の曲のようなドラマチックなストリングスではじまるのですけれど、すっとジョアン・ジルベルトの声がとってかわる心地よさが素晴らしいのです。

T9「Aquarela Do Brasil」からはギターとジョアン・ジルベルトの世界に戻るのですが、心地よく漂う、軽やかに聴こえていた音が、響きにおいてとぎすまされていると気づかされる瞬間にはっとしたりしながら、まどろみながら覚醒していくのでした。今日は空は晴れているのか気になります。もうすぐ、出掛ける支度を始めなければいけません。ベッドに横たわりながら聴きたい感じなのですけれどね。あるいは自転車で早朝、出歩きながら。でも、実際は、自転車乗りながらの音楽は危険なのです。T10「Disse Alguem (All Of Me)」T14「Cordeiro De Nana」が好きだなぁ。特にT14のジョアン・ジルベルトの声の漂い方は、尋常ではない気がします。

 ※

予告編でも使われていましたが、ゴダールが寄せたマイケル・ムーア華氏911」へのコメントは、次のようなものでした。

「ムーアはイメージとテクストを混同している。彼は意識していなくてもある意味でブッシュを助けている。ブッシュは彼が思っているほど馬鹿ではない。」

問題は、思考なのだと思うのです。ブッシュ・ジュニアに対する直接的なネガティブ・キャンペーンの本作は、客観的分析には遠く、最初からブッシュ・ジュニアを、悪、敵と前提し、そのために集められた素材を、そのために編集しているのでした。しかしそれでは、ブッシュ陣営が正義を主張する押し付けと、手法は結局同じであり、どちらも思考は停止し、自立的な検証機能が麻痺しかねないのではないか、と思うのです。なるほど、ブッシュはイラク戦争で私欲を満足させたかもしれません。しかし、では私欲でなければアフガン爆撃も、イラク戦争も許されるのか、そういう根本的な問いかけが、この映画には欠けていたように思います。またアメリカ兵の遺族を映し出して、アメリカの悲劇としてイラク戦争を捉えるムーアは、イラクで今も死に続けているアメリカ兵の死者の何倍もの死者に対してあまりに繊細さを欠いています。そうしたどこか閉ざされ、停止した思考が、結果的に敵に利する、ということなのではないでしょうか。ネガティブ・キャンペーンに対しては、それに勝るだけの量、勝るだけの大きさの正義を主張すればいいだけだからです。有権者が思考し、検証を行わなければ、キャンペーンは質ではなく量や大きさの問題に過ぎないからです。

しかし、だからこそ皮肉な補足を加えれば、ネガティブ・キャンペーンは今日的な「エンターテインメント」の一形態である、とも言えるのかもしれません(ワイドショーが展開する小泉自民党選挙劇場を思い浮かべもします)。たとえば、私は正直苦手とするマイケル・ムーアですが、彼を支持する人にとっては、むしろそうした繊細さの欠落した自由さが、突撃精神を生むのだというのかもしれません。そして実際、大ヒットしてもいるわけです。きっと流通しているエンターテインメントという言葉の曖昧な定義は、ムーアの突撃精神までやすやすとその裾野に含むのでしょう。エンターテインメントにおいて、話題の質は検証されずに量やインパクトだけが問われるのならば、刺客と呼ばれる落下傘候補者を多数輩出してきた自民党の選挙戦略はとても正しいと思います。政策の問題は度外視でただ女性というだけで比例第一位にするという選挙戦略なども、とても的を射ているのではないでしょうか。

トレイ・パーカー監督&マット・ストーン脚本「チーム★アメリカ ワールドポリス」も、そういう意味では典型的な「エンターテインメント」作品なのかもしれません。私たちには右も左も無い、すべてをアナーキーに笑い飛ばす、という態度で、矢継ぎ早にありとあらゆるものを破壊し、槍玉に挙げ、笑いものにするのでした(ムーアも笑いものにされているだけじゃなく、爆死させられてました)。それは恐れを知らぬ突撃精神なのかもしれませんし、わかった上で敢えてやっている大人の悪趣味なのかもしれません。げっぷが出るほどのこてこてのインパクトと量の勝利が目指されています。

以下、ネタばれです。

ところで、右も左も無い、すべてをアナーキーに笑い飛ばす、という態度は、それ自体の安逸さによって実は保守的であり、それゆえに安全に「エンターテインメント」になるとも言えるのではないでしょうか。たとえばキム・ジョンイルは、宇宙から来たゴキブリが支配していた、といった「オチ」が面白いのだとしたら、そういう揶揄の仕方のほうが安逸だという保守性と裏腹だと思うのです。そのほうが、価値撹乱は起こらないですし、むしろ価値基準を守るためにアナーキズムが道具になっているとすら言えそうです(もちろんこれは、矛盾した言い方ですけれど。価値を攪拌しないアナーキズムなど意味が無いといえるので)。

何も考えずに楽しめるエンターテインメント!というほめ言葉を、時々聞く気がします。何も考えずに楽しめるエンターテインメントなんて無いよね、という立場の私としては不可解なのですが、しかし、それでもそういう言葉は流通しているのでした。マイケル・ムーアの作品やトレイ・パーカー&マット・ストーンの作品は、ちょっと変化球で、現実の諸問題を題材にすることで、一見知的な立場も示しつつ、「何も考えずに楽しめるエンターテインメント」的なインパクトや量(情報)もきちんと盛り込まれています。そういう意味では、戦略としてよく練られた「エンターテインメント」なのかもしれないと思うのでした。