世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド / BOB DYLAN / 青山真治と神代辰巳

BGM : BOB DYLAN「Highway 61 Revisited」(追憶のハイウェイ61)

手元に「Hard Rain」がなかったので、これにしました。ボブ・ディランです。T1から「ライク・ア・ローリング・ストーン」です。1965年、40年前のアルバムなのね。

ボブ・ディランは、調べたら手元に3枚しかアルバムがないのでした。これは危機的な状況だと感じます。定期的に聴きたくなる度は、ビーチボーイズキンクスほどではないにしても、かなり高いのに。

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歯医者で奥歯を治療しました。一番奥の歯は麻酔が効きづらいのだよ、と歯医者は説明し、麻酔針が幾度も歯茎に刺さりました。歯茎が蜂の巣のようになっているイメージです。歯医者は、二三日は痛むかもしれない、と説明しました。それは麻酔の針で歯茎が傷ついたからだから、心配しなくても良い、とのことです。どちらかというと、蟻塚のようかもしれません。

医者にいくと、三原順の「はみだしっ子」シリーズのグレアムを思い出します。彼の言う、どうであれ客体になるのは嫌だ、という感覚は、子どもの頃にこのコミックに慣れ親しんだこともあって、実はかなり影響を受けている気がします。

はみだしっ子 (第1巻) (白泉社文庫)

はみだしっ子 (第1巻) (白泉社文庫)

村上春樹初体験は、友人に進められた「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」でした。予備知識なく読了したのですが、あとで調べて1985年に書かれていると知って、なるほど確かに「デュランデュラン」だしVHSコレクターだし、車の中ではカセットテープを聴いているし、ビデオショップでは上映会などもしているし、なるほどと納得しながら、それだけに今日読んでも、この小説の中で出てくる35歳の主人公の「趣味の良い生活」が決して大きくは損なわれていないことに感心するのでした。

世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド〈上〉 (新潮文庫)

世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド〈上〉 (新潮文庫)

20年後読み直してみたときに、その閉ざされた趣味の良さがただの勘違いに見えてしまうとしたら、この小説が描く、主人公の脳が作り出した、永遠に続く完全に閉ざされた不死の世界、自分という存在はそのままに、心や自我と呼ばれるもの(変化を求めるもの)を自律的に排除する心地よく平和で閉ざされた空洞的世界は、はなはだ信憑性を失うことになりかねないからです。もちろん、時代時代のモードはありますから、そのとき趣味の良さだったものが、今は変わってしまうことはあるし、そういうずれも確かに見受けられるものの、そうした細部も、全体の配置の中できれいにはまってしまえば、違和感なく一つのスタイルとなりえるのです。これは村上春樹の文体の問題とも通じるかもしれません。

この小説では、主人公の脳の中以外にも、いくつか閉ざされた空洞的な場所が出てきます。やみくろと呼ばれる人間を食する不気味な地底人は、おそらく皇居の真下に彼らにとって神聖と思われる空間を持っていて、そこに立ち入ることができないのですけれど、やみくろの世界は、都市を一個の人格として仮定したならば、それはイドの世界と言えて、皇居=天皇制と裏腹にもなっていると思われるのでした。主人公が、そのやみくろの世界の中心の空洞を通り抜けて、地上に戻ってくるという物語後半の流れは、儀式的とも言えそうです。もちろん物語としては、儀式ではなく、脳の中で起こっている彼を死(または思念の中での永遠の生)に至らしめる事態を止めるための行動なのですが、東京の地下に広がる日本の空洞を経て、彼自身が、それと呼応しつつそれとは別個に築き上げた、自分の内部にある空洞と向き合うという過程は、とてもきれいに呼応しています。

また、主人公の住む部屋における彼のスタイルの端正さ(そこには、元妻も含め彼以外は定住できそうに無い、誰もが訪ねられるがだれにも開かれそうに無い場所)も挙げられます。主人公の持つ、決して解読されない人間の脳を使った暗号化技術を狙って訪ねてきた(と思われる)男たちが、その部屋を破壊しつくすのですが、そのときに扉も蝶番ごと破壊され扉として用をなさなくなります。破壊した一味はそうする必要があったことを彼に告げます。その必要とは、男たちの思惑とは別に、主人公がそのとき彼を覆っていた一つの皮膜を破られることで、更なる自分の内なる閉鎖域へと向かわなければならなかった、という風におきなおすことも可能かもしれません。あるいは、組織と工場と呼ばれる情報戦争を繰り広げる二つの営利団体が、どこか底のほうでひとつに繋がっていて、一つの円環を描きながら、争いも続けることで、情報の対価を上げ続けているのではないか、という指摘が小説の中でありました。つまり資本主義の問題にも、どこかで置き換えられるかもしれません。

そろそろ、読んでいない方は読まないほうがいいあたりに踏み込みます。また、この中に、青山真治監督「冷たい血」のネタばれも含む予定です。

この小説は、主人公の脳内の閉ざされた世界でも物語が進行していきます。現実の主人公と脳内の主人公が次第に重なり合っていくのですけれど、脳内の世界で面白いのは「影」と呼ばれる自我の存在です。脳内の閉ざされた世界は、自我を壁の外においてくることで成立しているのです。主人公は、ラスト、自我とともに閉ざされた世界の外へ向かおうとするのですが、土壇場で思い直します。彼は、その世界が自分の脳内で作った世界だと気づくからです。しかし、脳内で作った世界であれ、閉ざされて完全に自律したその世界では、他の住人たちも自律した一個の存在としてあるのでした。主人公は、愛する女性も含めて、その自分が作り出した存在たちに責任があることに気づくわけです(それを架空の責任といえないのは、彼自身がその脳内の世界の住人として、他の住人と対等に存在しているからです)。

そうして閉ざされた世界で生きることを決めることで、現実の世界の主人公も意識を失い思念の世界へと入ってしまうわけですが、ここで欲望は、正しいか間違っているかではなく一つの欲望として完遂されているのでした。ただし、外部がなければ閉ざされていることには何の価値も意味もなくなってしまいます。脳内の主人公は、だから、自我をわずかにに残し、閉鎖された空間そのものを外部として、壁に囲まれた世界の更に内部にある追放者たちの住む森で生きることを決めるのです。

「影」と呼ばれる自我だけを、外に逃がしたことには、曖昧に可能性が孕まれています。それは17歳の太った娘が、主人公を冷凍保存していつか治せたら治してあげると約束したのに近い可能性でしょう*1。しかし、それこそが残されたわずかな自我そのものである可能性もあります(やはりわずかに自我を残して森に追放されたという、脳内の主人公が愛する少女の母親は、その世界の唯一の出口である南のたまりをずっと見ていたといいます。彼女もまた、そこに影を逃がしたのかもしれません)。

ところで、やみくろと呼ばれる存在を、都市の裏側、欲望があふれ出したものと仮定した場合、それは閉ざされた町から自我を運び出す一角獣の裏返しとしても存在しているとわかります。脳の中の世界では一角獣という美しい形をしていた存在が、地底では、多くの洗練されていない欲望をともなって、やみくろになる。そのやみくろの世界を潜り抜けられるからこそ、主人公は端正に閉じられた不死の思念の世界にふさわしくなったといえそうです。

しかし、私としてはこのやみくろの方により惹かれます。この存在は、読了したらなにかしらここに書きたいと思いますが、中沢新一のいうところの縄文的なもの(「アースダイバー」参照)に通じていて、そこには不定形で怪物的な可能性が眠っているように思うからです。中央に死に通じる、生と死が交感する霊的場を持つ東京のイメージ。奇形的だが強い欲望があり、その装置としての円環の輪、中央の空白、とキーワードを並べていくと、「スタジアム」が頭に思い浮かびました。そういえばスタジアムの中で、男女が死と戯れるようにして遊びはしゃぎ、拳銃で心中する映画がありました。青山真治監督の「冷たい血」です。

冷たい血 [DVD]

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自分たちの閉じた思念のために美しい死を選ぶ男女を鈴木一真遠山景織子は、「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」の主人公に近かったかもしれません。ただ、避けがたく閉じられる言い訳を与えられなかった彼らは、しかも二人に分裂していたために余計に、難しい身振りを要求されていたかもしれません。その鈴木一真に拳銃を奪われた刑事が石橋凌でした。彼はそのとき銃で撃たれ、片肺をなくしていました。鈴木一真遠山景織子が、二人の間に閉じられた輪を描いていたのに対して、石橋凌はその内側に空っぽの空洞を持っていました。それは、その生々しさにおいて、むしろやみくろの空洞に近かったかもしれません。

どちらも死をめぐる欲望を内包していたように思います。石橋凌は拳銃を奪われながら生きながらえたことを潔しとせず、執念の捜査をするわけですけれど、それは撃ち殺されたいということでもあったでしょう。しかし、彼はスタジアムの中央で死ぬ、閉じられた輪の中の住人ではなく、その輪と関わりながら空洞を内包しつつその周辺を生きる、もっと具体的な存在だったのだと思います。ですから、石橋凌は体の中に空洞を抱えたまま、映画の最後にジャンプを繰り返す。生々しさを確認するためにだと思うのです。

石橋凌が片肺をなくした設定は、すぐに神代辰巳を思い起こさせます。「Helpless」「チンピラ」といった青山真治監督の作品が大きく神代辰巳に負っていることを思い起こしても、やはり片肺を持たなかった映画監督・神代辰巳の存在がどれほど大きいかは改めていうまでもありません。その神代で言えば、「恋人たちは濡れた」の青年が二人乗りで自転車を漕ぐ円環運動がありました。円環の中央ではなく、円環それ自体をなぞる生々しさ…というところまで書いて、「ユリイカ」で役所広司宮崎将を乗せて二人乗りをする円環運動も思い出します。それは正確に生と死の分岐する装置だと思えます。その危うさに、神代辰巳青山真治の映画はあるのだと思います。

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*1:この小説の女性たちは、他者というよりも、主人公の自我の反映として存在していると感じられます。というよりも、彼の自我を反映することが心地よい弾性として、磨き上げられた存在が、主人公になっているというべきかも知れません。