扉の陰の秘密 / アースダイバー / John Hudak

BGM : John Hudak「Room With Sky」

フリッツ・ラング中沢新一にあうもの、と考えている内にわからなくなり、何となくしばらく聴いてなかったこのアルバムを引っ張り出しました。意外にあっています。ジョン・ヒュダック、と読むのだそうです。

聴くとエレクトロのアンビエントな作品として耳に響くのですが、少し奇妙な、違和感のようなものがずっと残り、その原因かどうかはわからないのですが、製作過程が変わっていて、John Hudak自身が、上記HPで以下のように説明しています。

Room with sky は良く晴れた日にベッドルームで自分の話し声を録音したところから始まりました。 私の家のベッドルームには窓枠がバウハウススタイルの窓があり、そこから南の方角にニューヨーク市が、西の方角には、ハドソン川とその向こう岸のニュージャージーのパリセーズ峡谷が見えます。私が話した言葉は、自覚しながら連続的に直接私の口から出たものですが、しかしながら実際のテキストはコンピューターの破壊的な編集で失われております。

私にとって、この作品の背後に持つアイデアは、聴き手が晴れた日に日当たりの良い部屋にいる様な感覚を伝えることです。私は自分の声の録音をし、それをこの最終系に到達するまで様々な変換を行いました。

Room with skyはStepan Mathieuによりマスタリングされましたが、デジタルからアナログへ、そしてデジタルへと温かみを加えるための変換工程を経ました。

もはやどこにも言葉としての形跡は留めていないのですが、たゆたうような中間的な音の感触は、言葉と言うよりは、声の残滓(意味をなくした響き)に確かに近いように感じますし、もしかしたらそこに声の本質も宿るかもしれません。同じ言葉でも、声によってだいぶ左右されます。声の意味をなくした響きには、言葉の魂のようなものがあるかもしれない、と、無理矢理スピリチュアルな方向に持って行ってしまうのでした。ただ、これはいささかでたらめで、夢想が過ぎています。このアルバムは、製作過程とは別に、やはり、単に音として、ユニークなのです。

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昨日の日記で、東京の中央にあいた空白としての皇居を巡る生々しさ、という話と関連して、中沢新一の新著「アースダイバー」のことを書きましたが、読了したのでその話を書きたいと思います。

中沢新一「アースダイバー」

アースダイバー

アースダイバー

縄文時代、東京はかなり内陸まで(吉祥寺あたりまで)フィヨルド上の入り組んだ、複数の入江を持つ土地で、そのとき地上に出ていた洪積地(丘)と沖積地(谷・または沖の埋立地)との間には、岬という海(死者・彼方の世界)と陸地(生者の世界)をつなげるような死をめぐる遺跡がたくさん作られた、そしてそれが東京の現在にも深く影響している、といった話で、一見端正な東京の近代都市的な側面を、そうした縄文的な地誌とそれを巡る「想像力」=フィクションで穴を開けていこう、縄文時代というキーワードを一種の抜け穴に、この東京に穴を開けていこうという試みなのでした。たとえば、東京タワーが霊地に立つ、霊的電波塔として、現世と死の世界の交流させている、などという想像、そしてその結果の一つが、あの不思議と脱力させられる蝋人形館だ、という展開は、無理やりかもしれないけれども愉しいのです。

すべてを縄文地図に結びつけていく展開は、いささか強引なものを感じるのですけれど、しかしそれは「想像力」のはばたきであって、この書物はそもそも縄文の地図と現在の東京を重ね合わせたときに浮かび上がる「ずれ」からスタートしているのですから、敢えてそれを指摘するのも少し野暮というものかもしれません。むしろここは、想像力の装置としての東京をどう楽しむかが問われているのだと思います。

中沢新一が、この書物にフィクショナルに示された思考、想像力をもって目指しているのは、資本主義とキリスト教的統制の進む世界的な近代都市の中に、どう権力から開放されたアジールな空間を作り出すか、無意識の危うい欲望を抑圧し統制する権力から、どう無意識へのパイプを構築し、一元的な価値観を解体していくか、という部分にあると思います。そのための武器が「縄文地図」だ、ともいえましょう。ただこれはかなり危うく/怪しくもあって、その終章が、天皇制という空白のもつ有機的な可能性というところで閉じていくのは、アイロニカルにすら読めてしまうと思います。なるほど、森に隠遁する穴としての皇居には、有機的に近代的都市国家を解体する景気が隠されているかもしれません。しかし、天皇制に象徴される空白には一元的で無根拠な権力統制の装置もやすやすと見いだせるわけです(例えそれが本質ではないとしても、天皇制がそのような「象徴」として使われてきた歴史があり、何か人間的な新しい可能性を提示しようとしても、実際に皇太子の声はかき消されていったのではないか、と思うのです。現在の天皇制を森の有機的な可能性と結びつけるのは、そうした硬直した事例一つとっても、かなり難しいように私には感じられます)。それを、敢えて縄文地図で反転させ、半ば倒錯的に、アジールな空間を作り出すために、都市の中心でありながら森という奇妙な場所に住まう天皇が、統制的な原理としてではなく、解体的な原理の象徴として天皇制と日本の東京を高らかに宣言する、というのは、中沢新一自身が書いている通り「夢想」に過ぎないと思うのでした。

しかし、言葉の正しい意味で天皇が国民の象徴になるのだとしたら、私たちは夢想してみるのも面白いかもしれません。この都市でどう想像力を働かせ、既にある中央の空白を、どう解体/解放してしまうか。その夢想が共有されるならば、象徴としての天皇も、そうでなければならなくなるはずでしょう。そこには、やはり夢想だとしても、理想的な革命の一形態があるのかもしれないと思います。ただ、やはり私は、天皇にはそうした象徴としての重荷を背負わせるよりも、人間として解放して挙げたい気持ちの方が強いのでした。天皇一家に職業選択の自由、真の意味でのプライバシー、人間らしく生きる権利、つまり人権を、ということです。

という話を書いていて、先日見たフリッツ・ラングの1948年の作品「扉の陰の秘密(SECRET BEYOND THE DOOR)」を思い出しました。主演はジョーン・ベネット、マイケル・レッドグレーヴ。ニューヨークの富豪の娘で、両親亡き後求婚者も後を絶たない社交界の花形シリア(J・ベネット)が、メキシコ旅行で、建築家マーク(M・レッドグレーブ)に出会い、急速に惹かれて結婚します。数日間、幸福な日々を送るのですが、突然シリアを突き放すようにアメリカに帰ってしまう。シリアは突然の夫の心変わりに不安になるのですが、夫からニューヨーク近くの田舎にある彼の家に来て欲しいという知らせが入り、喜び勇んで向かいます。しかし、迎えに来たのは夫ではなく彼の姉カロラインで、シリアは夫の邸宅について初めて、彼が初婚ではなく10歳の子どもがいること、姉となにやら謎めいた顔をヴェールで覆った秘書と暮らしていることを知るのでした。やがて帰ってきたマークも、愛を込めた抱擁をするかと思えば、唐突に冷たく突き放すこともあり、その繰り返しの中でシリアは混乱していきます。夫のおかしな行動の秘密とは何なのか…

以下、ネタばれです。

この作品のキーとなっているのは、巨大な屋敷の中にある7つの部屋です。その部屋は、屋敷のどこか奥深いところにあって、窓はなく閉ざされた場所で、うち6つは有名な殺人事件の起こった部屋をマークが再現した部屋なのですが、7番目の部屋だけは見てはいけないと、マークはシリアに告げるのです。シリアは、そこにマークの秘密があるように感じます。そして、遂にその部屋の合い鍵を手に入れて忍び込む。するとそこには、シリアの寝室がそのまま再現されているのでした。つまり、マークの秘密とは、愛する者を殺したい衝動だったのです(そこには、幼い頃の母を巡る原体験とか、いろいろな理由も込められていますが、私にはラングは、そうした精神分析的な文脈を重視していたとは今ひとつ思えないのでした。むしろ、その枠組みは単純化して露呈させてしまい、その枠組みをどう凶暴に活用できるかに興味があったように感じるのです)。

そもそも、マークとシリアが出会ったのは、メキシコ人同士がナイフで命のやりとりをする場面を、二人が同時に見ていたからです。一方のメキシコ人の放ったナイフ、鋭くも、やや放物線を描きながら飛び、シリアのすぐ脇に突き刺さるシーンはとても鮮やかなのですが、そのときシリアは、微動だにせず、そのすぐ脇をかすめた死を受け入れているのでした。二人の出会いには、最初から死があった、ということです。つまり、死を欲望していたのはマークだけではなく、シリアもそうであり、シリアが、マークに殺される覚悟までして彼と向き合うという暴挙に打って出るのは、彼女もまたそれを欲望していたから、と考えるのが自然ではないかと思うのです。

シリアが、自分の寝室とそっくりの部屋で、夫が殺しに来るのを待つクライマックスのシーンは、とても素晴らしい緊張感に満ちていたと思います。そこには、殺したい欲望と愛したい欲望を同時に持った男に、殺されたい欲望と愛されたい欲望を同時に持った女が、異常な偶然で向き合う幸福が描かれていると思うのです。もちろん、それは愛する男の謎を解くため、というのもあったでしょうが、屋敷の彼女の本来の部屋ではなく、殺されるための部屋に行ってこそ、初めて男に目をそらされずに見つめて貰える、つまり本来は、その彼女を殺す部屋こそが、男を愛する彼女の本当の部屋だったという反転が底では起こっていると思うのです。シリアに嫉妬する姉、シリアに裏切られたと思う秘書、シリアになつこうとしないマークの10歳の息子。これらの登場人物の誰よりもマークの視線を勝ち取るための戦いに勝った、とも言えるかもしれません。

男の幻想としての部屋に、自身の場所を見出してしまうのもまた、精神分析的な構図にきれいに当てはまるかもしれません。しかし、その図式の単純さ(殺人と愛の直接的な接合)に生まれる力強さ、それを可能にする夫の手にしたスカーフが引き絞られる欲望の強さとそれを前にして逃げないシリアの姿が、緊迫感を生むのです。向き合って、夫の欲望を理解し受け入れようとすることも、重要だと思います。また、その部屋と自分の寝室とを結ぶ、曲がりくねった暗い廊下などが、そこを歩み、走る身体も含めて、鮮やかに浮かび上がってきます。対峙する人間の関係の図式性に比べ、その表現の力強さと過程の異常な豊かさ。私は、そこにこの映画におけるフリッツ・ラングを感じます。

炎で屋敷が燃え尽き、愛に目覚めたマークがシリアを助け出して落着、という展開自体は、珍しいモノではないと思います。ただ、映画のラストシーンは、一瞬ながら興味深くて、結婚直後、メキシコでのシーンにもあった、シリアの腹部にマークが頭を乗せ、ゆったりとひなたぼっこをしているショットで映画が終わるのです。彼らはニューヨークに戻っていたはずです。もちろん、もう一回思い出のメキシコに行ったのかもしれません。しかし、燃え尽きた屋敷のショットのあとに、唐突に差し込まれる二人の「メキシコ」のショットは、出発点への回帰、まるですべての出来事が夢の中のことであったかのような印象を与えます(「飾り窓の女」を見た記憶が作用しているのかもしれませんが)。すると、屋敷全体をひとつの欲望の装置としてとらえ、メキシコ=オープンスペースからアメリカ=クローズドスペース=装置、そして再びメキシコ、という運動がそこに見いだせるかもしれません。スタティックな屋敷に込められた欲望の図式を、露呈し、焼き尽くして、すべてオープンスペースに晒していくような映画の欲望がそこにはあったのかもしれません。欲望が、明確な形を帯びて地上に現れてしまう。それは、とてもフリッツ・ラングらしい話であるように思えます。

または、暖かく、開けたメキシコの陽光の下に、もしかしたら相変わらず、その欲望は眠っているのかもしれないわけです(スターと地点に戻ってしまったともいえるのです)。それは一度水中に潜って、死に触れ、再び水面に戻るようなイメージかもしれません。映画の冒頭、水面のショットは、そうしたニュアンスを帯びているのではないでしょうか。つまり、水中には、いまだ死の欲望が渦巻いている。これもまた、フリッツ・ラング的な話だと思うのでした。