ジョージ・A・ロメロ / Iancu Dumitrescu

BGM : Iancu Dumitrescu「ED. MN. 1001」

イアンク・ドゥミトレスクと読むらしいです。破壊的音響で知られるルーマニアの現代音楽の鬼才、と紹介されるケースが多いみたいです。実際、暗くて地響き系です。今日はロメロなので、ゴブリンの「ゾンビ」サントラ(名盤)でもいい気はしたのですが、ちょっとひねってみました(笑)。

よいページが見つからなかったのでした。

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ハリケーンアメリカを襲っています。中沢新一の「アースダイバー」(昨日の日記をご参照下さい)を読むと、昔、江戸に住んでいた人々は、火事や地震といった自然の「怪力」は、人命や様々な財産を奪うけれど、同時に世界を刷新する力として肯定的に捉えられていたと語られます。自然の怪力は「力士」という形で象徴的に現れる。大地の力を、四股という形でコントロールしてみせるのだそうです。つまり、「力士」は、大地の「怪力」を司る、一種の神官的な存在なのだと思います。

ジョージ・A・ロメロにとって、おそらくゾンビは、そうした地の振るう「怪力」を象徴する、一種神聖な存在なのだろう、と、ロメロのゾンビ映画3作のオールナイト(「ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド」「ゾンビ」「ランド・オブ・ザ・デッド」)を見て思ったのでした。

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おそらく天然系の天才だろうジョージ・A・ロメロのことです。1968年この映画を作った時、同じく1968年に殺害されたキング牧師の暗殺を前提としていたのかどうかはわかりません。しかし、ブードゥー教とは無縁の、ゾンビに噛まれると噛まれた人間もゾンビになっていくという悪夢のような連鎖・増殖を特徴としたゾンビ映画の王道を作ったロメロの、冷静に考えると理解不能な設定がまかり通ってしまうのは、ひとつは恐怖において説得力があった、そこには正しく、欲望として正しいものが刻まれていたからだと思うのですけれど、それだけではなく、公民権運動とベトナム戦争という2つの現実に接続していたからなのだと思います。黒人の青年の迎える悲惨な最期は、とても直接的な表現です。実際、彼を殺すのは、ベトコンでも、同じく被害者の仲間でもなく、この世界を圧殺する、一方的な権力なのです。ゾンビたちの弱々しさに対して、ゾンビ討伐の一団のマッチョさは、嫌悪感を呼び起こすに充分です。

アメリカの隙間に、ゾンビを出現させ、増殖させ、この世界を解体する。1978年、10年後「ゾンビ」を撮ったときには、すでにベトナム戦争終結して3年がたっていました。しかし、それでもこの映画は、ベトナム戦争の映画だと私は思います。亡霊がアメリカの隙間に入り込むのに必要な時間が3年という歳月だったのだ、というのは、ご都合主義的な言い方ですね。しかし、異質な敵が内部に増殖し、世界を滅ぼしていくイメージが可能になったのは、アメリカが、世界に対して外部を持つだけ充分に傲慢でありながら、同時にそこに深く関わっていて、イメージが地下を伝わって進入するだけの隙間と地下水脈を持っていた、ということですから、やはりベトナム戦争と無縁とは思えないのです。おそらくそれはテレビを通して届けられたベトナムの映像だったはずです。そしてその地下水脈から、青白い顔したゾンビたちがあふれ出てきたのでした。ショッピングセンターという舞台は、世界が滅び、当然資本主義も無効になったにもかかわらず、それ以外に価値を見いだせない生き残った人間の、滅ぶのが当然の振る舞いを示す、よい墓標だったのだと思います。

しかし、実際には、鮮やかな欲望が世界を食い尽くしたにもかかわらず、世界は変わろうとはしなかった。そこで、ロメロは、その閉塞感を「死霊のえじき」(1985年)でやはりストレートに表現したのだと思います。地下シェルターで繰り広げられる絶滅への物語は、実は残された夢の残滓のようなモノだったのかもしれません。そして、ゾンビという形で地上に現れた神官は、地下へと追い戻されるのです。一種の埋葬の映画だったのではないかと思います。

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では地表はどうなっていったのか。アメリカは、ゾンビなど出現する余地がないまでに世界を閉ざし、外部と内部が地下水脈で繋がることがないように身を守ったのではないかと思うのです。たとえば湾岸戦争で、あるいはサラエボで、爆撃が一方的な手段として、ボタンひとつで投下され、死者は映されず標的の破壊だけがテレビを通して届けられるようになったときから徐々に準備されていたのだと思うのです。では、そのアメリカをロメロはどのように破壊するのか。正攻法です。外から攻め込むしかないなら、外から攻め込むのです。

その意味では「911」のテロリストたちは、完全に間違えていたのかもしれません。アメリカには、「911」を外部と内部を繋げる穴として捉える感性などはもはや残っておらず、「911」の死者と、アフガニスタンイラクでの死者をつなぐあるべき水脈が見失われてしまった。ですから、アメリカの内部で起こされた「911」は完全にアメリカだけが被害者であるかのような問題にすり替えられてしまったのです。WTC跡地は無意識に通じる穴ではなく、どこにもリアルさとして繋がらないきれいな空白になってしまったのではないでしょうか。もう一度生々しい内部に穴を開けようにも、もう21世紀のアメリカには、その水脈がたたれていたのです。

ですから、ロメロは攻め込むしかなかったのではないでしょうか。

以下、ネタばれです。

さて、ゾンビに自我を与え*1、ゾンビに生者の権利を与え、ゾンビがわずかな生者が冨を謳歌するタワーをすべて食い尽くしてよそへと去っていくときに、それを攻撃するどころか祝砲としての花火まで上げてしまうラストには、他者との共存というにはあまりに脳天気な暴力的な併置がなされているとは思いますし、ゾンビがイスラム教徒の隠喩に見えてしまうのは、ロメロのゾンビ愛を差し引いても問題があると思うのですが、しかし自分が始めた黙示録を自分で祝福の物語にしてしまえる幸福な作家は滅多にいないと思いますし、しかもそれが時代のリアルと結びつきながら描かれるというのはとても貴重なことだと思うのでした。

アーシア・アルジェントはビッチなファッションでアクションを繰り広げます。主人公レイモン・ベイカーはどこまでも影が薄く、最後まで人間として生き延びてしまうので、(トークショーみうらじゅん中原昌也が指摘していたとおり)結局影が薄いままです。ゾンビになって初めて、ロメロの世界では生を得ることが出来る、という反転を見事にやってのけるジョン・レグイザモが、ゾンビになっても人間としての意志を失わずにデニス・ホッパーに復讐を果たすシーンはたいへん腑に落ちる一方で、ゾンビになったら人間の意志が奪われ死者としてさまようしかない、というこれまでのロメロ自身が作った設定を自ら突き崩す瞬間でもあるのでした。しかし、それもロメロは天然系だから仕方がないのだと感じます。

ところで、ちょっと見方を変え、ひねくれた言い方をすると、ゾンビたちに人権など無いと殺しまくって復讐される街の頂点を極めたデニス・ホッパーは(まあ死体ですから、人権がないと思っても仕方がないとは思うのですが・笑)、その結果、知らず知らずのうちに、ゾンビに人格を与えてしまったのだ、とは言えないでしょうか。もし、世界に穴が開いていて、そこからゾンビたちが這い出てくるような世界ならば、ゾンビは無意識的な恐怖の存在であれば良かったのです。しかし、穴は完全にふさがれ、地下水脈はたたれ、社会は統制され、あやういものは外部に追いやられてしまった。すると、もうゾンビたちはあやふやではいられないのです。意志を持たなければ、攻め込むことは出来ないからです。世界にバランスと平等を取り戻すためには、ゾンビは進化しなければならなかった。逆を言えば、リアルさに通じるような、世界にバランスを取り戻すために無意識から警告を発する穴が、デニス・ホッパーにこそ必要だったのです。デニス・ホッパーは、だから鼻をほじったのでした。彼は、無意識的に穴を求めたのです。しかし、彼の鼻からはさすがのゾンビも、這い出てくることは出来なかったのでした。

*1:こちらに指摘があったので思い出したのですけれど、そうそう、ゾンビがゾンビを見て驚くシーンがあるのです。つまり、これはゾンビがゾンビという存在を発見する瞬間で、自我の発見にも近いのではないかと思います(鏡に映った自己像的を発見するのにも近いと思うのです)。そのようにこの映画では、「ゾンビ=猥雑な死の増殖」という等号が、様々な「人間性」がゾンビに付加されていく中で、「ゾンビ=再生、生まれ変わり」という等号に転換されていくのです。