NANA / ハッカビーズ / Tara Jane O'Neil

BGM : Tara Jane O'Neil「You Sound, Reflect」

You Sound Reflect

You Sound Reflect

どこかで「NANA」にも「ハッカビーズ」にも通じるものを、というバランス感覚が働き、このアルバムをチョイスです。しかし、結果的に、どちらにも繋がりません(笑)。タラ・ジェイン・オニール(略称TJO)の、フォーキーな歌と、背後のノイズとエレクトロのうねりと生音の楽器が交じり合って作り出すたゆたう世界。こういう、やさしく癒すようでいて、実はざらついた感触を耐えず残していくような音楽が、全般的に好きです。このアルバム、最初に聴いたときは実はあまり気に入らなかったのですが、季節なのかなぁ、いま聴くと、かなり良いです。

なんか、可愛いです。

 ※

たまたま続けてみた2本の映画に関連性を求めるのは、悪癖かもしれませんが、「NANA」が、積極的にコスチュームプレイを楽しむ映画だとしたら、「ハッカビーズ」はそのコスチュームを嫌悪し、解体し抵抗とする映画なので、並べて書いてみるのは面白い気がしたのです。

NANA」で面白いのは、コミックスのイメージに忠実であろうとする映画の怖いまでの自立性のなさです。パンクをやっているはずなのに、パンクっぽさを感じない音楽は、コミックスの中からは流れてこないので、その違和感はここでは無視して、主にファッションですね。宮崎あおい演じるハチ(混乱を避けるために、愛称で)は、かわいいけれど微妙な髪型&ファッションです。コミックスでは確かにかわいかったけれど、宮崎あおいに似合っているかというと、相当微妙です。しかし、敢えてコスチュームプレイに徹する。中島美嘉演じるナナは、はまっていたと思いますが、コミックスでは多少の過剰さも絵空事として流して見ることの出来た蓮(松田龍平)との絡みのシーンが、ことごとく行き過ぎた感じで、特に巨大な倉庫を改造した部屋で抱き合いながら風呂に入っているシーンなどは、少し目のやり場に困る感じです*1

単に原作のイメージを壊さないためではなく、その現実感のなさを乗り越えるための必然として、徹底したコスチュームプレイが必要だったのかもしれません。どのように、コミックスの中のハチが体験する、普通の女の子なのに普通でない青春のきらめきを映画にも移植するか、という試みです。それを、この映画は、映画自体でなすのではなく、原作のイメージを直接的に映画に結びつけることで成立させようとしているかのようです。

NANA (1)

NANA (1)

ところで、こうした本来つながらないものを接続し、普通の女の子が憧れの世界に身をおけるような場を作り出す、という意味では、原作も同様の装置を内包しています。それは、タイトルにもなっている「NANA」という名前ですね。芸能界でスターダムにのし上がっていくナナと、彼女と同じ名前ながら、違う愛称で呼ばれるナナ=ハチは、その名前の共通性ゆえに同じ部屋に吸い寄せられるように集まり、同居を開始し、互いに互いを補うようなものを見出していくなかで、強引に、きらびやかなスターの世界(しかしスターらしいドラマティックな孤独を生きてきた少女の世界)と、恋愛にだらしなく、自己中心的で、セックスをすると妊娠もしてしまう、普通に生きてきたいまどきの少女とを結びつけ、現実感と憧れを縫い付けてしまうのでした。もちろん、そこでは相互の矛盾がなくなるように、かわいらしいファッションという要素が必要になるのです。

そのファッションをコスプレとして再現し、蝶番とすることで、コミックスと映画は接続されていきます。この原作を映画化する上では、ある意味道理に適った身振りだったかもしれません。しかしその接続は、コミックス内部におけるようななだらかさとは異なります。なぜなら、漫画のキャラクターに似合うファッションやシチュエーションが、生身の現実に移植可能とは限らないからです。そのずれを、映画の面白さに変換してしまうことが出来るか出来ないかが、この映画の可能性を分かつところだったのだと思います。

実はまだ見ていないのですが、こんなことを書いていて、曽根中生監督の「嗚呼!花の応援団」シリーズを見たいと思い当たりました。レンタルビデオ屋で探してこないといけません。曽根中生の作品は、私が見た範囲でははずれはありません。今最も映画を撮ってほしい監督なんですが、今どこにいらっしゃるのでしょうか…。

曽根中生の作品で、最愛の映画は、これです。

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夕闇満ちる宿の部屋での長回し、部屋のサービスの和菓子が、女性の肩を滑り落ちる瞬間に泣きました。

ハッカビーズ」は「スリー・キングス」のデヴィッド・O・ラッセルの監督作品です。

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こちらは、「NANA」とは逆で、虚像としての自己、社会に対して自分の本来の姿を隠し、隠すことが人生だと思っている人々や、うまく自己をコントロールできず、社会のつまはじき者になっている人々が、それぞれ本当の自分を見つめなおしていく中で、人間同士は、様々な軋轢の中に生きているけれども、どこかで互いに繋がっているのかも、という哲学的な実感にたどり着くまでの話しです。

と、こう整理できてしまうところが、オタール・イオセリアーニの食わせ物振りと比べて弱いところで、イオセリアーニならば、緩やかに美しくつながるところは繋げて見せるくせに、一方では、残酷な身も蓋もない切断も含めて、現実とするのですけれど、デヴィッド・O・ラッセルとしては、むしろその切断はすでに911という形で成されていた、ということなのかもしれません(それは主人公の一人、石油を使うことを嫌悪し、消防車に乗らず自転車で現場に駆けつける消防士マーク・ウォールバーグに象徴されているでしょう)。また、こうした誠実なメッセージが、アメリカに欠落しているという飢えのようなものがあるのかもしれません。もっとも、これはかなりうがった見方ではあります。

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むしろこの映画のギミックに代表される表現方法に、この映画の可能性はあるのかもしれません。それはコスチュームプレイを嘔吐しながら、なおも続くコスチュームプレイ、といいますか…。

以下、ネタばれです。

自分を飾ることに嫌悪を隠せなくなったジュード・ロウは、唐突に嘔吐を始め、それを契機にヤング・エグゼクティブとしての彼の道はすべて閉ざされていきます。自分は自分であることのアレルギー反応としての嘔吐は、自分がありとあらゆるところで繰り返し話してきた自分を飾るための話を、幾度も繰り返し客観的に聞きなおすことを契機にはじまります。おそらく、どこまでむいても自己の実体が見えない不気味さを、繰り返す話の中で見出したということではないでしょうか。それが、この映画の物語的主題だといえそうです。

しかし、本当の自己と他者、といったものを映画で表現しようとしても、内面であれ、結局は平面の上でしか表現できないのが映画です。なので、目や鼻といったからだのパーツが体からはなれてでたらめに四方八方へ運動を始める映像的なギミックが、飾りとしての自己を解体する視覚的な表現だとしても、それじたい表面に過ぎない。つまり、自己のコスチュームプレイを嫌悪し、嘔吐するとしても、その嘔吐を映像的に表面化して初めて映画になるわけで、その意味では別種のコスチュームプレイが始まっただけ、とも言えるのかもしれません。そして、道化じみた格好で、この映画の登場人物たちは、次々に喧騒に参加していくのでした。派手に、その症状を全身に表現しないといけない。ばかなことをし続けないといけないのです。シャツをはみだしたまま、ずぶぬれのジュード・ロウが、セレブの集まるパーティに乗り込むシーンなどが、そのいい例でしょう。しかし、こうも判りやすくおかしくなることで、別種のコスチュームプレイになってしまう可能性が、この映画の危うさだとも言えるのです。

ただ、どちらにしてもコスチュームプレイだとしたら、嘔吐感に襲われながらもそれを遊ばなければいけない。その意味では、本当の主役のジェイソン・シュワルツマン(「天才マックスの世界」の主役ですね)とジュード・ロウがエレベーターの中で仲たがいし続けるシーンは、そのエレベーターが様々な階で止まって、その扉の外にいる人によって新たな情報が放り込まれ、更にいさかいが続くという形で、非常にユニークなのでした。多チャンネル的な、情報が過多でどんどん入れ替わっていく感触が、コスチュームプレイに嘔吐するこのコスチュームプレイの映画の、本当の可能性なのかもしれません。脱いでも脱いでも新しいコスチュームが現れるだけ。これは、この映画の物語的な主題ではありません。しかし、その残酷さは、この映画の呪いのようで、ちょっと愉しいと思うのです。

*1:逆に、だからこそ、彼氏のバイト先で彼が浮気しているとわかったときのハチの「もういらない」発言のリアリティが印象に残ります。私的には、一番面白いシーンでした。