成瀬巳喜男(4)/ DAVID GRUBBS「The Spectrum Between」

BGM : David Grubbs「The Spectrum Between」

Spectrum Between

Spectrum Between

今日見てきた成瀬巳喜男の「秋立ちぬ」という、あまり有名ではないけれど、素晴らしい作品のなかで、夏木陽介が、少し調子はずれに歌を歌うのですね。2度ほど、ギターを手に、弾き語りで。スローなフォークソング。調子はずれといっても、すごく微妙で、いまの耳で聞くと、むしろそこに変な面白さがあって、上手いとは言えないけれど、変に記憶に残るのです。3階の物干し台のところに腰かけて、ギターを手に、夜空に向かって歌う、とか、いまの時代では考えられないかもしれないけれど、この映画が作られた1960年のころには、ごく自然な、若者のイメージだったのかもしれません。

それとデヴィッド・グラブスと何か関係でも、といわれると、これまた強引な感じにはなるのですが、ギターと歌、というキーワードだけで、つい結び付けてしまったのです。T1「Seagull And Eagull」、T4「Gloriette」とか結構好きですね。ポップで、ひねくれてて。あと、不快さと心地よさが表裏一体のT7「Pink Rambler」からT8「Preface」に至る流れも。

「秋立ちぬ」の夏木は、やはり時代は違うので、遊び人といっても八百屋の仕事はちゃんとこなしているようだし、決して軽薄なだけでもないのですけれど、夜中に家を抜け出して銀座の街中を、少年と一緒にバイクで走るシーンがあって、これが素晴らしいのです。バイクという若者の乗り物を成瀬は疾走感として捉えるよりも、夜、首都高の上を、だらしなくまとまって走るのではなく、それぞれが微妙な距離を撮りながらまばらに走るストイックさは、夏樹と少年の二人乗りのバイクであれ、どこか孤独と通じ合っている気がします。時代の変わり目の臨界点を、無自覚に踏み出している孤独(たとえ、当人がそれと気づかないにしても)をまとっていると感じます。そういう意味では、時代を変えていく若者たちを描いた1957年の増村保造の「くちづけ」や1956年の中平康の「狂った果実」といった作品とは少し違った身振りでもあります。

それは、映画全体の印象から導かれたものかもしれません。

成瀬巳喜男については、9/19/39/4の日記でも書きました。)

以下、ネタばれです。

この映画の主人公の子供たちは、ある時代の臨界点に置かれていて、あっけなくあらゆる物から切り離されて孤独になっていきます。秀男は、父を結核でなくし、母(乙羽信子)は駆け落ちしてしまい、彼一人、母の生家の八百屋に預けられてしまう。信州から着たばかりで、銀座には友達もいない。かわいがっていたカブトムシすら突然にいなくなってしまう…。秀男より2級ほど年下の順子は、大阪に住む裕福な男が囲った二号の娘で、しかしまだ自分の置かれた日陰者の状況を理解できていません。だから大阪からやってきた本宅の子供たちの意地悪を理解できない。けんかに強く男らしい秀男をすっかり好きになった順子は、彼を兄にしてほしいと父と母に頼み込むのですけれど、当然のようにその願いは断られ、初めて自分の思い通りにならないものがあることを知ります。母親が一方では、順子の知らない間に、父親と母親の間で引越しの話が進んでいます。

銀座の旅館商売も、八百屋も、時代の曲がり角に立っていて、もうすぐその周辺がビルで埋め尽くされる予感は、登場人物たち共通のものです。時代は変わりつつある。そのなかで、大人たちは自分たちの新しい状況にシフトしていこうとするのですが、子供たちは、その大人たちの思惑に振り回されながら、自分たちが理解されない、大人たちは自分たちのことを考えないでも生きていけてしまう存在であることに突き当たるのでした。何もかもが子供たちを理解せず無縁になっていこうとする風景の中に、子供たちは立たされるのだと思います。

そのことが、強く画面に、生々しく現れるのは、少年と少女が晴海の埋立地に立ったときです。家出した二人。海を見たことがない秀雄のために順子は海へと彼を連れて行くのですけれど、そこには寒々とした、埋め立てられたばかりの土地が広がっているのです。そこに遊ぶ子供たちの笑顔と同時に、変化の臨界点で様々な切断を経てすっかり切り離されてしまった子供たちの孤独を見るのです。

順子に約束したカブトムシを持った秀男が、晴海で怪我した足を引きずりながら順子の家に向かうと、家はもぬけの殻で、引っ越したよ、と居残っていた元従業員に告げられます。このシーンの切断が、最後の切断となり、もう秀男はなにものも残されていないかのようです。少年は、以前順子と来たデパートの屋上に立ち、海を見ます。そしてデパートの屋上の手すりに身を預け、手すりの上でカブトムシを這わせる。夏休みの終わりです。

この映画は成瀬版「大人は判ってくれない」として作られたのかもしれません。1960年、確か「大人は判ってくれない」は公開され、話題にもなっていたでしょう。しかし、成瀬の残酷さは、子供の足をくじかせ、アントワーヌ・ドワネル君のように、どこかへ向かって逃げていくことなど許さないのでした。むしろ逃げられるのは、子供を捨てようと思えば捨てられる、大人のほうなのだ、という残酷さが、この映画の随所に、痛々しく刻まれています。画面のいたるところに、孤立がある。そして子供だからどこにもいけない。だから少年はそう遠くない場所、デパートの屋上へ向かうのです。そこではロッセリーニの「ドイツ零年」を思わせる緊迫した空気が孕まれもするのでした。