AMM / 松浦寿輝「半島」/ ライディング・ザ・ブレッド

BGM : AMM「Ammmusic 1966」

AMMMusic - 1966

AMMMusic - 1966

ああ、これはかなり好きなアルバムです。頭のうらっかわ、右の上の方で、ずっとこの音が鳴り響いていたら素敵だろう、と感じるタイプの音楽です。耳では聞こえないのに、頭には響き、「でも聞こえるのよ!」とかヒステリックに叫んだりしたいです。

耳で聞いているから安全、ではなくて、抜け道を探し、触手を伸ばしているような感触に、身を浸しながら楽しむ。

 ※

パーティの招待を受け、珍しく正装で出掛け、飲みつけないものを飲み、食べつけないものを食べたせいなのか、その夜からひどい風邪を引いてしまったのでした。今度の風邪がよろしくなかったのは、のども痛くなく、頭も痛くなく、咳も鼻も出なかったことで、遅れてきた夏ばてがアルコールで誘発されただけだろう、一晩寝れば大丈夫と甘く見ている間に、熱が急に上がって、さて床に付こうと椅子を立とうとするとまともに立てない。翌日、市販の風邪薬でも症状が抑えられたことを考えると、その夜の時点で風邪だと気づき、薬を飲んで眠ればいくらかましだったと思うのですが、酔いもあり、熱もあって、ともかく眠ることしか考えられず、残暑の中、毛布を身に巻きつけるようにしてがたがた震えながら眠ったのでした。夜中、まんじりともせず、毛布を離すまいと身をこわばらせて寝たためか、朝の5時くらいに目を覚ますと、奇妙に冷たい汗が体を覆っていて、節々がひどく痛く、特に背中に強い痛みが走る。それを忘れるためにもう一度眠ろうとするのですが、背中の痛みは背中の筋肉がひび割れるような感じに思えるほどで、一度意識してしまうと耐え難く、仕方なく起き上がって、熱にうなり、背中を曲げられない痛みを抱えながら、何かひどく途方にくれた気持ちで、部屋の真ん中に立ち、眠りをすっかりあきらめて椅子にすわり、10分ほどぼうっとして、再び眠気が痛みに克つタイミングで、静かに布団に戻ったのでした。

松浦寿輝「半島」を読了しました。装丁がとても美しくて…。デンマークの画家ヴィルヘルム・ハメルショイによる、女性が背を向け立っている絵があしらわれています。絵にはまったく疎いので、どういう画家であるのかまったく知らないのですが、「半島」の中に書かれていた短い注釈によると、カール・テオドール・ドライエルの構図に影響を与えた画家だとのこと。なるほど、確かにイメージの通じるところがあります。しかし、こうした注釈を信じすぎてもおそらくいけなくて、むしろそこにトリックのようなものも感じます。ハメルショイの絵が、最初から潜在的にもっていたある不穏な力が、ドライエルの名前が併置されることで、鮮明に広がりを帯びていく、というのは、何事も映画を中心に考える私の悪癖のなせる業かもしれませんが、ともあれ、この本は、一義的には端正で退屈なはずの寂れた地方の旧市街に広がる、裏側の、死にいろどられ腐臭を放ちながらも、だからこそ魅惑的な、豊かに入り組んだ迷宮を、主人公とともに歩むという体験です、その表紙絵の端正な構図に対して、扉を開けるドアノブとしてのドライエルという固有名は、やはり示唆的だと思うのでした。

半島

半島

以下、ネタばれです。

瀬戸内海に突き出た、半島とも島ともつかない場所にその旧市街はあります。不意に、自由になりたくて大学を辞めた迫村は、観光地には程遠いこの地に、定住する気は毛頭ないものの、とはいえ他に行く場所も思い浮かばないまま流れ着きます。彼は、「自由」と口にしていても、完全な自由など想定できないことも知っていて、だからしがらみをどう軽くするか、という結局は相対的な自由の努力をするのですが、それは当然のように、行き当たりばったりに進んだり、投げ捨てたり、置き忘れたり、死へと近づいていったり、果ては破壊的に何かを殺したりすることにつながるのでした。自分自身をどう投げ捨てていくか/殺していくか、という言い方も出来るかもしれません。その意味では酩酊もセックスも、自分殺しの変種ですし。ところが、その中でも、人間の関係はできていきます。その意味では、投げ捨てても投げ捨てても殺しても殺しても自由ではない、という言い方が出来ます。しかし、それでも殺し続けなければならない。だから、自分の少年時代=記憶「それ自体」を殺すために、子供の首を迫村は絞めるのでした。

その子供の首は、地下で人身売買や臓器売買をしているらしいこの旧市街の、裏の顔の、迫村の行う悪が思念の悪だとしたら、それとは異なる現実の悪と連結する、最大の焦点だとも言えます。この町の迷宮は、おそらくそうした現実の悪が作り上げたものです。その現実の悪は、ビジネスとして目指された構築的な悪だと思われます。しかし、迫村の偏った視線で見ているからというだけではなく、入り組んだこの旧市街の路地や地下の迷宮は、構築的に目指されていたはずの悪が、実はそれが何であるかをわからないまま行われている側面も有していて、その無意識の成果が半島の有機的な迷宮を欲望し、作り上げているとも言えるのでしょう。だとしたら、その無意識こそにアクセスし、その中で自己を解体して自由になっていこうとし、幾度も、地下へ、死へと繰り返しもぐっていく迫村の方が、本当の意味で「リアル」に、この半島を体験しているのかもしれません。

けれど、現実の悪も確かにあり、いくつもの子供の死や性的虐待が、その地下には満ちてもいるわけでした。現実と妄想を争わせること。そして克っていこうとすることで、自由を思考すること。と書いていて、クロード・ミレールの「ニコラ」を思い出しました。臓器売買と不思議の国のアリスをあわせたようなこの映画の主人公の少年は、いずれ大人に育ったとき、迫村のような幻想を見るのかもしれません。

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ジャン=クロード・ブリソーの映画も、思い出しました。たとえば「かごの中の子供たち」でしょうか。そこでは、精神の悪と現実の悪を繋げる象徴としての女性、というイメージが重視されていました。これは、「半島」でいえば、シーフェンであり、佳代でしょう。彼女たちは、迫村が縊り殺す子供同様に、精神的な暗闇と現実の狭間に立っているようです。それをまさぐるエロティックなイメージを、苦く腐りかけた、甘い果物を噛み砕く快楽のように味わうのが、この小説の一番の楽しみだと言えそうです。そこには、翌日ひどくみっともないことになるという予感、というか確信もあったはずです。

味は、におい同様、集積した記憶として、出来事とは違い、時間的経過を飛び越えて瞬間の中で積み重なると思うのですけれど、実は出来事と呼ばれているものも解体していけば、そうした強度の積み重ねとして瞬間に折り重なるのかもしれません。そのイメージを追及していくと、次第に記憶も解体されていくのでしょう。それが「半島」の後半において主たる問題となるものです。しかし、それは出来事がなくなってしまうということでもおそらくはない。記憶が、迫村にとって一番強い自由を阻害するものだったので、迫村は子供としての自分を縊り殺さねばならないのですけれど、それは、一人一度のことではなくて、雄飛のために繰り返されなければならないのかもしれません。この小説では6度、迫村は地下をめぐり、再び浮上するのですが、しかしこの半島自体が一つの大きな地下迷宮でもあったわけです。彼は、この半島自体をも、繰り返しながらおいて、いずれ死ぬと考えるのが、自然なのではないでしょうか。

ミック・ギャリス監督の「ライディング・ザ・ブレッド」という映画も、そういえばごく最近見たのでした。

今ひとつ乗り切れなかったのは、死のエロティシズムが欠落していたから、というだけではなくて、死が現実をうまく纏め上げる構成的な力を発揮してしまうからだと思います。怖いだけではなく、危うくもなければ、「リアル」ではないということではないかと…。