成瀬巳喜男(3)/ Luc Ferrari

BGM : Luc Ferrari「Chansons pour le corps (1988-94) / Et si tout entière maintenant (1986-87)」

Ferrari: Chansons pour le corps; Et si tout entiere maintenant...

Ferrari: Chansons pour le corps; Et si tout entiere maintenant...

「身体のための歌」というアルバムと「そしてもし私がたった今」というアルバムの2 in 1です。

「身体のための歌」は、女性の身体の部位について女性にインタビューした声をコラージュした作品で、 1目 、2手、3胸、4性器、5沈黙の中で歌おう、の5つの歌から出来ています。「そしてもし私がたった今」は氷砕船を舞台にしたラジオドラマ形式らしいのだけど、よくわかりません。言葉がわかればかなり面白いのでしょうけれど…うーん。ただ、こうしたコンセプトを聴くだけでも、ちょっと楽しいです。それを実行するユーモアのあるまじめさも含めて、あやかりたいと心から思いますし。

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「噂の娘」は60分に満たない作品で、1935年、成瀬としては初期の作品ですが、後年に通じる成瀬的なものが明らかにこの映画には刻まれており、そして既に一定の達成を見てもいるのでした。傑作と言っていい出来だと感じます。まったく知られていない作品でも、いざ見てみるとすごいものがある。そういう出会いがあるから、好きな映画作家のレトロスペクティブには、油断無く通わなければならないのです(成瀬巳喜男については、9/1の日記昨日の日記でも書きました)。

酒屋を道楽が過ぎて潰しかけてしまった隠居(汐見洋)と、酒屋の主人(御橋公)。その長女で店を切り盛りする昔ながらの価値観を大事にし、半ば家のためにする見合いも自らの幸福と感じている娘(千葉早智子)。次女で、新しい時代の価値観に生きようと思っている若い娘(梅園龍子)。そして実は次女の母親でありながら、それをずっと秘してきた御橋公の妾。以上がこの作品の主要な登場人物です。

以下、ネタばれです。

左前の店を建て直すために酒に混ぜ物をした御橋公が、長女に問い詰められても、白を切るシーンがあります。蔵の前、雨の中、傘をさし、じっと父親を潤んだ瞳で見つめる長女(その表情は素晴らしいのですが)を見た御橋公は、娘を蔵の中に招き入れるのですが、その「父の場所」で行われていることを娘はとめることが出来ないのです。見つめても届かずに、はぐらかされてしまう。そこで無表情に嘘をつく父親は、「家」と家族のためにしていることであれ、誰ともそれを共有できない、孤独な存在として画面に浮き上がってきます。そして結果的に父親は、警察に逮捕され、店から連れ去られていくのでした。深く結び合わされながら、同時に解消できない亀裂を相互に抱え込む人物たちが、限られた空間で適切な位置をそれぞれが占めながら、時に一歩踏み出して相手の陣地へと進もうとするのですが、それでも亀裂を埋めることが出来ず、そうした関係が導き出す必然的な結果から、人々がいた空間が空白地になってしまう、というパターンは、成瀬の他の映画で見たように思います。しかもそれは、単に父親がいなくなるとかではなくて、時代の変化の中で不可逆的に「家」という象徴的なモノが失われる瞬間にもなっています(「秋立ちぬ」という成瀬のあまり知られていない傑作が思い起こされます。まったく時代は違うのですが、あの映画は、失われることの残酷さのきわみでした)。

クライマックス、御橋公が次女に本当の母親を教えるシーンでは、これまでのわがままを詫びろと迫る御橋公と、自分が愛人の娘だとわかったとたんに周囲のすべてを拒絶しアイデンティティ・クライシスを起こす娘、その二人の間に立つ姉と実の母の、それぞれ深いつながりを持ちながら埋められない関係が浮かび上がるのでした。そうした関係が、「家」という空間において、それぞれの身体をどこに配し、どういう視線のやり取りと、相互の空間への侵犯を行うかによって示されていくのですけれど、同時にそれは、妾を「家」に入れる、その「家」の娘を妾の子だと知らせる、といった点で、「家」を当然のように危うくするわけです。その危うさを構成するスマートさと残酷さにおいて、成瀬は成瀬なのです。またその緊張感を、直後にあっけなく父親を逮捕させて、解体させつつ時代とリンクさせていく鮮やかさも、成瀬の映画的知性だと感じます。

御橋公と長女は、古きよき「家」を守るために、一方は蔵にこもって不正を働き、一方は店にあって仕事に励んでいたのでした。次女は、近代的な自由人のように振舞って見せていても、本当は「家」に依存していたと、最後になってわかります(彼女は自分が妾の子であったことを受け入れられないのです。それは言い換えると、家に自身の安定したアイデンティティを置いていたからです)。一種の諦観の中で滅んでいこうとする隠居の汐見洋の揺るぎ無い自由さも、彼が食いつぶしてきた「家」があればこそでしょう。すべてが「家」に結び付けられます。しかし、その結びつきが導く必然的な危うさによって、避け難く「家」は解体されるのです。思うに成瀬は、時代の移ろいを描いても、間違っても郷愁の作家ではないのだと思います。その時代時代の必然に拠って解体されるものを、ただ解体してみせるリアルな残酷さが、成瀬の恐ろしさなのだと思うのでした。