成瀬巳喜男(2)/ Teodoro Anzellotti「CHEAP IMITATION」

BGM : Teodoro Anzellotti「CHEAP IMITATION」

詳しいことはわかりません。テオドロ・アンゼロッティという、ドイツのアコーディオン演奏家で、このアルバムはジョン・ケージを演奏していますが、他にもサティを演奏したものとかがあるようです。

ジョン・ケージ:チープ・イミテーション

ジョン・ケージ:チープ・イミテーション

秋の夜、もの悲しくなるにはちょうど良いです。でも、実際はクーラーもかけているし、扇風機も回しています。アコーディオンの、空気が抜けていく響きのあとを追いながらこれほど気持ち良く宙づりで脱力した感触を出されると、何か奇妙な罪悪感を感じてしまいます。

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一昨日の続き成瀬巳喜男です。当然なのですけれど、下手な映画を見に行くよりもこの成瀬の上映に通うほうが、ずっと豊かで充実した時間を送ることが出来ます。しかもそれは、クラシカルな映画の完成度を楽しむといった喜びではなくて、非常に刺激的な、安穏とは楽しめない体験だと思います。

舞姫」は1951年の作品。バレエ教師の高峰三枝子が、20年来思ってきた二本柳寛と、夫・山村聰の間で揺れる姿を描いています。若く美しい娘役の岡田茉莉子よりも、高峰三枝子の愁いを帯びた伏目がちの美しさにときめきます。

京都から鎌倉の家に久しぶりに戻ってきた山村聰が、高峰三枝子の寝室のふすまを開け覗き込むシーンが映画の冒頭のほうにあります。階段を上ってくる山村聰の足元が映される。その音を聞く高峰三枝子は寝たふりをして、ふすまに背を向けて横たわっており、明るい廊下から声をかけてきた夫を無視する。美しく整えられた寝姿で、夫の声を無視する妻には、矛盾した思いがあったのかもしれません。「寝たのか」と声をかける夫は、寝たふりに半ば気づきながら踏み込んで来ようとはしないのでした。

一歩を踏み出せないまま拒絶と期待を孕み平行線をたどってきた夫婦関係だと言えるのかもしれません。成瀬の映画は、男女の間の、そうした断絶を孕んだ緊張感を演出しながら(それは空間の中で、男と女の身体の位置関係が、開け放たれたふすまや縁側、廊下と部屋といった便宜上の境界線をはさんで、視線を交わしあい、言葉を投げあいながら作られていくのですけれど)、時にそれを踏み越えたり、踏み越えられないままじりじりと見つめ合ったりすることを通して、エロティシズムをかもし出していくのです。

以下、「舞姫」「雪崩」ネタばれです。

もっともそういう成瀬の演出の成果としては、新藤兼人との相性の問題もあったのか、「舞姫」は決して上位の作品ではないと感じます。とはいえ、4人の親子が揃って食卓を囲むと朝食のシーンなどは印象的です。4人は、反発しあう磁石のように、寄せ合ったとたんにばらばらに散っていくのです。家族がばらばらなのは夫が家族と距離を置いてきたからだと非難する妻、贅沢に生きてきた妻や、その妻とともにやはり不自由なく育った息子と娘に対して、自分ひとりが精神的に貧しく感じ除け者だと感じてきたという夫。そうしたやり取りの中で、夫は食卓のある部屋に隣接した自身の書斎へと退き、妻は二階の自身の部屋に去ります。そして食卓のある部屋、中間的な場所に立って、娘は父親に、お母さんはお父さんを愛そうとしていたのに、と告げるのです(これはこれで残酷な言葉だと思います。愛していたのではなくて、愛そうとしていた、ですから)。

妻は夫を愛して結婚したわけではなく、婿養子の夫は妻に引け目を感じ続け、幾年もそれを積み重ねて生きてきました。その断絶は年月も伴って埋めがたいもののように見えるのですが、子供たちは、夫婦の間に立って、様々な代弁をし、隔たれた空間をどうにかつなぎとめようとします。娘の前述の台詞も、ある意味では残酷でありながら、他方では母の真情を代弁するものですし、息子は母親に、父に頼まれずっと母親のことを監視していたことをわびる、これも変節はしながら夫が妻を思ってきたことの証しでもあるのです。父の書斎と母の2階の部屋に隔てられた二者を、子供たちはそのようにして行き来します。このシーン以外にも、子供たちは唐突に、いろいろな場所に現れるのですが、こうした子供たちの運動が、映画の最後で、出て行った高峰三枝子を家に引き戻したといえるでしょう*1

1937年の作品「雪崩」で、そうした夫婦の間の断絶をどうにか繋ぎ止める役割を果たすのは、夫の父親にあたる汐見洋でした。

大佛次郎の原作を得て作られた「雪崩」では、情熱的に駆け落ちをして結婚した夫をどこまでも信じる妻(霧立のぼる)、一途な妻を持ちながら幼馴染のいとこを忘れることの出来ない夫(佐伯秀夫)の夫婦が描かれています。佐伯は、自分の気持ちが冷めていて、本当に愛する人がいるのに、妻と別れないのは不誠実で古臭い考え方だ、もっと自由でいいはずだと思います。汐見はそれを一言に否定します。お前の考え方は薄っぺらで、人は人に対して責任を果たさなければならないのだ、と。そして、汐見から見たら姪にあたる娘(江戸川蘭子)を説得し、佐伯との仲をあきらめさせ、佐伯には財産を取り上げると脅してあっけなく言うことを聞かせるのでした。

佐伯が不気味なのは、財産を取り上げるという父の脅しに屈しながら、それを自分の卑屈さだと気づかないところです。財産がなければ、お前はわがままに自由などといえない、という汐見に抵抗するために、家を飛び出し、貧しくとも生きていく気概は佐伯にはありません。そうした気概のなさこそが間違いなく不自由さなのですが、佐伯はそれを認める代わりに、不自由を強いられた仕返しに妻と心中してやろうと思うのです。そして最初に駆け落ちしたホテルに二人で向かいます。そこで、彼のエゴイズムは頭をもたげ、別に心中する必要など無い、心中する振りをして妻だけ殺せばいいじゃないか、と思い直すのでした。

佐伯の言う自由のロジックがたどり着くところに、そうしたエゴイズムがあることを浮き上がらせる成瀬は、社会に対して自由な人間などというものを一切信じていなかったのだと思います。成瀬の映画を見ると、その時代時代の状況が(特に物語の舞台となる建造物の構造とそこにおける人物配置を通して)深く登場人物の精神に作用しているのを見出すことが出来ます。そしてその上で、宿命のように欲望を抱き、人と向き合っていくのです(状況に対して自由にはなれないからこそ、男女の間には絶えず埋めがたい亀裂があり、しかしそれでも惹かれあう人々を描くのです)。佐伯を愛しながら、夫婦という関係へ踏み出すことが出来なかったいとこの娘は、佐伯に求愛され、あくまで自分たちの心に素直に行動すればいいのだ、という佐伯に対し「社会的で無い良心なんて、私には考えられません」と応えます。メロドラマとは到底思えない、その拒絶の台詞、不自由さの自覚に、成瀬的なものが宿っているのではないかと思います。

霧立にとって佐伯は宿命です。霧立は無条件に夫を信じ、夫を受け入れ、夫が死ねと命じたら死んでもいいと認めるのです。佐伯は、その強さに圧倒されます。そして、ただひたすら夫を信じ、愛する、何の選択肢も持たない不自由な妻に敗北し、殺意をなくして泣きじゃくる妻を慰めるのでした。霧立は妻というポジションに、何の矛盾も疑問も抱かずに納まっています。だからこそ何の迷いもなく信じ愛することが出来る、といえそうです。それは、この映画が撮られた1937年当時ですら、すでに希少なものだったのかもしれませんし、現代的ではなかったのかもしれません。しかし、だからこそ霧立は、無条件に強く美しく、恐ろしくもある、と思うのでした。こんな風に人に愛されたら、その不自由さを生きるしかなくなってしまいます。それはそれで、美しくも恐ろしいことかもしれないのです。

*1:高峰三枝子が二本柳と待ち合わせた駅にも、岡田茉莉子は唐突に現れます。最後の最後に、家に戻った母親の手紙を届けるためにです。この手紙は劇中で読まれることは無いのですが、それは娘の言う「お母さんを許してあげて」という言葉に、すべて代弁されているからかもしれません。彼女は母親のメッセンジャーなのです。