Charlie Parker / ボブ☆ディランの頭のなか
あ、忘れないように、メモをいきなり書いてしまうのですが、今、ローリー・アンダーソンの回顧展をICCで開催中なんですよね。行かないと。映画ばかりに気を取られて忘れがちなので、気をつけないといけません。
BGM : Charlie Parker「Now's The Time」
- アーティスト: チャーリー・パーカー,ハンク・ジョーンズ,アル・ヘイグ,テディ・コティック,パーシー・ヒース,マックス・ローチ
- 出版社/メーカー: ユニバーサル ミュージック クラシック
- 発売日: 2003/04/23
- メディア: CD
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チャーリー・パーカーです。気持ち良く聴いています。しかし、おそらくまだよくわかっていない気がしてならないのでした。もっと聴いていかないと駄目なのでしょう。きっと*1。
2003年の映画で、原題は「MASKED AND ANONYMOUS」。「仮面をかぶった無名の者」と訳せばよいでしょうか。脚本にはラリー・チャールズとともにSergei Petrovという名がクレジットされているのですが、これはボブ・ディランの変名だそうです。
ラリー・チャールズという監督は全くの無名でしたし、正直なところあまり期待はせず、ボブ・ディランの今の姿を見たいと言うだけの理由で見に行ったのですが、やはりディラン自身が脚本にコミットしていることがとても大きいのかもしれません、ユニークな世界観の、面白い映画になっていたと思います。
舞台は、メキシコのようなメキシコでないような、アメリカのようなアメリカでないような、不思議な国で、慈善コンサートが開かれることになり、刑務所に捕まっていた往年のスター、ジャック・フェイド(ボブ・ディラン。以下ディランと表記します)が出演することとなって、ようやく保釈されたディランはコンサート会場に向かいます。この、どこともよくわからない不思議な国の国内では内戦が続いており、反政府軍と現政府と、旧革命派軍と、3者が入り組んで対決している、しかしそのどこにももはや同義など見いだせない混迷の時代であることが、3つの組織を渡り歩いて自らの故郷を殲滅した経験のある兵士(ジョバンニ・リビシという俳優さんが演じていたのですが、ちょっと印象に残りました)によって語られます。戦争の時代、という設定です。アメリカの内部に戦争を、という一種のイメージの輸入を、ボブ・ディランも行っているのかもしれません。しかし、SFといった形ではなく、どの時代ともよくわからない世界で、「現在のボブ・ディラン」が登場する、ということを考えると、この世界に無理矢理戦争を重ね合わせていると言えそうな気がします。
キャストが以上に豪華なのですね。慈善コンサートをぶちあげて一儲けをたくらんでいるプロモーターにジョン・グッドマンとジェシカ・ラング、音楽記者にジェフ・ブリッジスとその恋人で敬虔なクリスチャンの娘にペネロペ・クルス、純粋にディランを信奉するギタリストにルーク・ウィルソン、死に行く大統領のあとを継ぎ、時期大統領となろうとしている男にミッキー・ローク…ディランの脚本に集ったとしか思えない、キャストたちです。
以下、ネタばれです。
その中心に、現在のボブ・ディランが立つわけです。彼が映像として駄目なら、まったく魅力無い映画になってしまうのですが、60歳を越えてなお、かっこいいとしか言いようのない、でたらめな存在感なのですね。まああの声で、無表情で、歌うシーンが何度か入るわけですから、存在感も当然なのですが、歌うシーン以外でも、頑固で、スタイリッシュで、それでいて、いまだに青春で不良でもあったりする。青春、という点では、オイディプス的なモチーフが大きく機能しています。実はディランは大統領の息子という設定で、父親の死に瀕した姿を見に行くシーンがあって、死後、兄が大統領の権限を受け継ぐ記者会見の真っ最中に、ちょうどライブが始まるのですが、ライブは父権・権力への抵抗でもあると同時に一種の葬送としてもあるのです。そういう直接的な縁戚関係を、権力側と結ぶ、という設定が、非常に面白いと思います。
しかし、そのライブも、軍部の介入で混乱のうちに終了します。そして、いっそう悲惨な出来事が起こります。ライブのあと、ディランを別々の形で信奉するながら、互いにかみ合わないジョン・グッドマンとジェフ・ブリッジス(特にブリッジスは複雑で、現実への絶望をディランにぶつけようとして、それに失敗し続ける、そんな形で彼に向かっていく)、ルーク・ウィルソンがディランを囲んで向き合う。そこで悲惨で無意味な死が突然現れるのです。権力の圧政の中で、ともに生きづらい人間たちが、相互に殺し合ってしまう弱さ。それもまた現実であり、その現実を引き受けて、えん罪で再び刑務所に向かうディランは、言ってしまえば権力の外へ向かうのでも、権力を解体するのでもありません。権力の中に未だとどまっている。しかし、といって歌うことをやめるわけではないのです。車に揺られて、無表情で、刑務所に連れて行かれるシーンのディランは、やっぱりかっこいいのです。「真実と美は、それを見るものの目に宿る。ぼくはもうずっと前に、答えを探すことをやめてしまった。」というラストの台詞は印象的でした*2