運命じゃない人 / 曽我部恵一「ラブレター」

サニーデイ・サービスは、比較的後期(最後かな?)の「LOVE ALBUM」というアルバムあたりから好きになって、それから曽我部恵一氏がソロになってからも追いかけているのでした。本日のBGMは最新アルバムの「ラブレター」です。「LOVE ALBUM」は、スタジオワークというか、加工されている部分が魅力的だったのに対して、「ラブレター」は歌とギターの直球のアルバムです。ライブアルバム的な気持ちよさをバンドという単位を最大に生かして出そうとしています(クレジットによると、曽我部恵一氏はギターを弾いてないみたい)。歌い手として、ここまで出来るよーと見せようとしているような感触を受けました。T1「バタフライ」が好きです。

ラブレター

ラブレター

LOVE ALBUM

LOVE ALBUM

カンヌで賞を取り話題になった内田けんじ監督の「運命じゃない人」を見てきました。

主人公の宮田(中村靖日)は底抜けのいい人で、人に頼まれると嫌とはいえない性格らしく、映画の冒頭、同僚から、明日の朝から4時間くらいマンションの部屋を貸せよ、と強引に頼まれても、断ることが出来ません。独身サラリーマンにしては分不相応なマンションに住んでいるのは、結婚詐欺師の元彼女あゆみ(板谷由夏)のためにマンションを買ってしまったから(だまされて買ったのではなく、彼女を喜ばせたくて黙って買って貯金が0になり、あゆみにとっては文無しの用無しになったので、あっけなく捨てられてしまった)、といった設定は、あとからおいおいわかってくるのですが、それはさておき、とりあえず《アパートの部屋を貸す》という小さなエピソードから、内田けんじ監督はビリー・ワイルダーの作品が好きなのだろう、と判るのでした。「アパートの鍵貸します」ですからね。更に、翌朝アパートを借りにこの同僚が現れたりすると、この小さな本編には関係のない挿話がちゃんと、映画が一晩の出来事を描いていることを示す句点として機能するわけです。伏線を幾重にも張り巡らせ、それぞれの伏線を話の中で順次きれいに消化しながら、複雑な物語を視覚と聴覚で滑らかに紡いでいくのが映画なのだ、という内田監督のスタンスが、こうした細部にまで見出すことが出来るのでした。けして、口先だけビリー・ワイルダーファンではないのだ、という気概を感じるところです。

となると、さしずめ中村靖日演じる宮田は、ジャック・レモンの役回りでしょうか。恋愛に不器用で、女性に夢を抱いていて…。「アパートの鍵貸します」は1960年の作品。45年を経ても不器用な恋愛は大して変わらないのかも、と思うと、シャーリー・マクレーンがあどけない純情さで不倫愛にはまっていたりする女心の不可思議さと、霧島れいか演じる真紀の純情でもありしたたかでもあるキャラクター造詣も重なっていきます。板谷由夏の女詐欺師の悪女ぶりも古典的といえば古典的なキャラクターですし、探偵の神田が親友・宮田の純情を守るために奔走するという設定も、どこか懐かしい今の物語ではない感じがします。この映画が、熱く好意的に語られているのは、そうした心地よく安定したクラシカルな骨組みを持っていることがあるのかもしれません。その上で、時系列を組み替えながら、一晩の出来事を複数の登場人物の視点から見直すことで、ある視点からは見えなかった意外な出来事を浮かび上がらせて、事件の内容ではなく視点で物語を盛り上げていく演出の上手さ、複数の視点を導入しながら話をばらばらにすることなく、むしろ滑らかなひとつの物語として繋ぎ止めていく構成の巧みさもあります。近年では珍しい作風だと思います。

ただ、その珍しさは裏腹に、必要以上に自分の立ち位置を口にしないと、物語を今の時代に似つかわしくできない悲しさとなって「運命じゃない人」に見え隠れしている気もします。なぜ、すぐ逃げなければならないところで、板谷由夏演じる女詐欺師は、探偵も金目当てだったはずだ、下心があったはずだと絡まないといけないのか。どうしてやくざの組長は、自分の組経営のスタンスを語らずにはいられないのか。そして宮田は、自分がお人よしであると素直に認めるような受け答えを、堂々としてしまうのか*1。そこには、なにか不安のようなものが立ちこめているのかもしれません。自分の役回りを何も語らずに演じることが出来ない。自分の立ち位置が自明なものではないことを、登場人物たちが気づいてしまっている…そんな不安感です。そういえば、探偵の神田も、婚約破棄されてしまったヒロインの真紀も、自分の行動を説明しよう説明しようとするのでした。決して、作劇上の迷いなどではないのだと思います。むしろそうした自注的台詞の一つ一つも、きちんと考え抜かれていて、作品の中で笑いを生み出す要素として機能しています。しかし、同時にそこには、何か不安が漂うのだと思うのです。それが必要である、という感覚において。

以下、ネタばれです。

ところで「運命じゃない人」というタイトルは、《運命の人》が受動的な出会いだとして、その運命を一度は逃しそうになりながら、敢えて自分からもう一度その相手を選択する、そんな相手、そんな恋愛を指しているのだろうなぁと思います。たとえば、電話番号をゲットするために必死に走ってタクシーを追いかけたり、せっかく大金を盗んで別れたのに、もう一度彼の部屋に戻っていったりしてしまう、そういう選択です。とはいえ、では運命が無縁かというと、出会いは偶然なわけですから「選択した人」にはやはりならないわけです。運命で出会ったけれども、運命としてではなく自分から選んだ人。略して「運命じゃない人」と思うのですが、いかがでしょうか。

監督自身がどう語っているのか、とかはよく知りません。が、ともあれ、私はそう思った、ということです。そしてそのあたりが、この作品に好意を抱かせるポイントになっているのでした。

*1:女なんて簡単にうそをつくと言われても信じない宮田に神田が「お前だけ、別の世界にいるみたいだな。地球に戻ってきなさい」というのだけど、宮田が「嫌だ!」と答えるシーンのことです