Count Basie / メリンダとメリンダ

BGM : Count Basie & His Orchestra「April in Paris」

エイプリル・イン・パリ

エイプリル・イン・パリ

恵比寿ガーデンプレイスの夕暮れ時、もうだいぶ青みがかかり、東京の明るい夜を迎える手前の、最も薄暗く感じる時間帯を、ヘッドフォンでカウント・ベイシーを聴き、ぬるい風が吹いている。映画が始まるまでのほんの20分くらいの楽しみでも、とても心地よいものではあったのでした。いやぁ、ビッグバンドもいいですね、って、思うわけです。知りもしないのに。

ちなみにT1のアルバムタイトル曲「April in Paris」の有名な“ワン・モア・タイム”という掛け声は、まさかあんな風にあとから吹き込んだ感丸出しの声で入っているとは思わなかったので、今の耳で聞くと違和感がぬぐえないのですけれど、逆に、そこにサービス精神というか、ショービジネスとしてのポップなセンスも感じるのでした。サービス、サービスです。アルバム全編、名曲揃い。T9「Mambo Inn」T10「Dinner With Friends」のラスト2曲の流れが好きだなぁ。夏だからかもしれないですけれど。カウント・ベイシーは、お財布と相談しながらもう少し追いかけてみたいですね。

恵比寿で見たのは、ウディ・アレンの「メリンダとメリンダ」です(それでデューク・エリントンのCDも欲しくなりました)。

その前に、昨日の日記の話です。内田けんじ監督の話題作「運命じゃない人」のことを書きました。一晩の出来事を複数の登場人物の視点から見つめ、ある視点からは見えなかった意外な事柄が、別の視点からは浮かび上がる、そんな意外性を楽しむ映画です。そして、更に複数の導入を導入しながら、滑らかな一つの物語としてつながっていくところが上手いと書きました。

さて。なぜそんなおさらいをしているかというと、ウディ・アレン監督の「メリンダとメリンダ」も、一つの物語を複数の人間の視点からそれぞれ見つめるという形式をとっている作品だからです。ただ、「運命じゃない人」とは真逆の方向性の作品でもあるのですね。「運命じゃない人」が一つの物語の中に複数の視点を取り込んでいくのに対して、「メリンダとメリンダ」は二つの視点が一つの物語に導入された結果、物語はリンクしながらも二つに分裂していき、まったく同じ物語でありながら同時に内部に埋めがたい断絶をも孕み込んでしまうのです。同じ素材を使って、同じ料理を作りながら、味付けの異なる2品の料理を、一つの皿に載せている感じです。しかも実はその決して滑らかにつながっていくことはない断絶にこそ、ウディ・アレンは映画を見出しているのではないかと思うのです。

以下、ネタばれです。

劇作家同士が、カフェでメリンダという女性の恋愛を、一人は喜劇に、一人は悲劇に描いていこうとします。どちらのメリンダも、イタリア人の写真家と不倫の上、司会の夫と別れ子供たちの親権も奪われ、更に愛人を故意に殺した過去を持っています。ニューヨークに戻ってきたばかりで、精神的に不安定だったメリンダは、直前まで自主入院で精神病院にもいたようです。ライトな設定ではありません。しかし、喜劇は毒も薬も笑い飛ばしうるものなので、かまわないといえばかまいません。

彼女の物語を喜劇と悲劇に隔てるのは、昔馴染みの女友達と売れない俳優の夫婦のところに転がり込むか、引っ越してきたアパートの1階上に住む女流監督と売れない俳優の夫婦のところに転がり込むか、という分岐から始まります。しかしこの二つは、メリンダ(ラダ・ミッチェル)がどちらかを選べる、という種類のものではなく、喜劇のメリンダならこっちになるだろう、悲劇のメリンダならこっちになるだろう、という作劇上の必然に負っています。たとえば、喜劇のメリンダの選ぶ夫婦は、美人で知的な妻アマンダ・ピートの夫は三枚目のウィル・フェレルなのです(彼は、早口で毒舌家、ロマンチストで移り気でコンプレックスだらけの男、つまりウディ・アレンのコピーのごとく、出ているシーンではしゃべりまくります)。対して悲劇のメリンダは、クロエ・セヴィニーと売れない美男俳優の夫婦を訪ねる。どちらの夫婦も倦怠期には違いないのですが、俳優の組み合わせが違うので、印象がまったく異なるのです。その意味では、音楽も大きい要素ですね。悲劇版のメリンダの劇中で流れるのは室内楽やらクラシックなピアノ曲。対して喜劇版ではデューク・エリントンをはじめとするジャズなのです。どちらも、ニューヨークの自然な音楽であり、けれどその音楽が、メリンダの運命を分けていってしまいます。

とはいえ、この分岐は俳優による色分けはあっても、極端に物語が分離しながら、喜劇と悲劇に分かれていくわけではありません。「同じ素材で同じ料理を別の味付けで」と書きましたが、喜劇のメリンダ、悲劇のメリンダともに、出てくるエピソードは共通しているのです。もちろん、最初に駆け込む相手が売れない俳優とインテリの妻という組み合わせだというのもあります。たとえば、どちらのメリンダも歯科医を新しい相手として紹介されますが好きにはなれなかった、というエピソードが出てきます。そしてどちらのメリンダも偶然知り合ったロマンチックなピアニストと恋に落ちてしまいます。駆け込んだ先の夫婦の片方が浮気していて、それが倦怠期の理由らしい、というのも同じです。

共通するのは、そうしたエピソード部分だけではなく、もっと細かい細部でも見出せます。喜劇版でボビー(ウィル・フェレル)はメリンダに恋の告白をするはずが、先に別の男性への恋心を明かされてしまい、手も足も出なくなるというおかしくてちょっと切ないシーンがあるのですが、その舞台となったレストランで、悲劇版ではメリンダが席をはずしたちょっとの間に、メリンダの恋人がメリンダの親友(クロエ・セヴィニー)への恋心を打ち明けて、二人の心が通ってしまったりします。ところで、悲劇版でこのときメリンダたちが飲んでいるワインは、ボルドーワインの、オー・ブリオンなのですけれど、喜劇版でもこのワインは出てきます。最初にメリンダに紹介した歯科医が気取って出したワインがオー・ブリオンで、ボビーはそれを皮肉って見せるのです。このように、舞台や小道具まで、喜劇版と悲劇版は共有しているわけです。

さらに、編集にも注目です。この映画では、パラレルワールド的な悲劇と喜劇が語られるわけですけれど、共通するエピソードはどちらかの版に代表させてしまうのです(これはあるようでなかった演出だと感じます)。たとえばメリンダが自分の過去を告白するシーンでは、悲劇版のほうでほぼその内容が語られるのですが、カットがかわると、とたんに喜劇版に移って、そんなわけなのよ、と比較的明るい調子になったメリンダが言うわけです。喜劇版での彼女の語りは、想像するしかないわけですね。しかし、それは演出放棄ではなく、観客がちゃんと想像できることが大事なのではないでしょうか。つまり、受け手の観客も、喜劇と悲劇を、それぞれわきまえて、構えてみているのです。

おそらくそこに、喜劇と悲劇を分ける決定的な要素があるのではないでしょうか。それはもうクロエ・セヴィニーが言うように「運命には逆らえない」としか言いようがないのかもしれません。たとえば、クライマックスでメリンダが嫉妬に駆られて扉の中の恋人たちをうかがうシーンは、悲劇版にも喜劇版にもあるわけですが、どちらもまったく異なる展開をたどるわけです。一方は悲劇的な友人と恋人の裏切りを同時に目の当たりにする、一方は(同じように嫉妬に駆られて扉の外に立つのでも)、実は互いに嫉妬しあって立ち聞きをしあっていた、という話になり、愛を確認して抱擁しあう喜劇的な展開をたどるわけです。それは、喜劇を作ろうとするか、悲劇を作ろうとするか、観客に悲劇として受容させるか、喜劇として受容させるか、という作家と観客の問題に過ぎません。メリンダのあずかりしらないところで選択はなされているのです。絶望的な断絶です。

しかし、まったく異なるものでありながら、同時に、その二つは順列組み合わせの差に過ぎない、というところがこの映画の面白いところなのです。そして二つを、あえて一つの皿に盛り付ける。すると悲劇版と喜劇版の参照関係の中で、悲劇と喜劇がそれぞれ互いに解体してしまう、そんな試みといえそうな気がします。

悲劇版と喜劇版が参照関係を結び、互いの垣根の薄さを露呈することは、どちらも安定したジャンルとして存在するのではなく、むしろどこまでも不安定であるということなのではないかと思うのです。たとえば、悲劇版では、早い段階でメリンダと恋人になるピアニストは出会います。そして、誰も彼もが浮気をするこの映画では(悲劇であれ、喜劇であれ、ですね…浮気こそ、順列組み合わせを豊かに作っていくこの映画の原動力なのです)、一定以上仲良く付き合った報いなのか、メリンダは恋人に裏切られてしまう。喜劇版では、ピアニストと出会うのは比較的後半です。ですから、メリンダは振られる前に、自分からボビーを好きだと気づいて、ボビーに走ることが出来る。メリンダとボビーにとっては喜劇ですが、見ようによっては喜劇版のピアニストは悲劇的なポジションにいます。しかし、それはタイミングだけの問題かもしれないわけですね。もし映画がもう少し長く続いていたら、喜劇版のメリンダはボビーも別れ、悲劇版のメリンダに新しい出会いがあったかもしれない。悲劇と喜劇は逆転するかもしれないのです。

その垣根の不安定さ、それでいて絶対的な差異に、ウディ・アレンは最後、死を滑り込ませます。喜劇的であれ、悲劇的であれ、いずれ人は死ぬ。そんなことを言って、知り合いの葬式に向かおうとしている劇作家たちの一人、喜劇作家が、ぱちんと指をはじいたとたんに映画がタイミングよく終わり、この映画は軽妙なテイストを残したわけですけれど、映画がここで終わらず、葬送のシーンまで続いたとしたら、どうなっていたでしょう。つまり、映画の終わり、映画の死だけが、もしかしたら喜劇と悲劇を最終的に確定させるのかもしれないのでした。