フリッツ・ラング「ニーベルンゲン」/ Third Ear Band

BGM : Third Ear Band「Elements」

Alchemy / Elements

Alchemy / Elements

2 in 1のアルバムが出ているのですね。私の手元には「Elements」単体のCDしかありません。結構好きだったのですが、最近は、ずいぶん聴いていませんでした。今日は「ニーベルンゲン」なので引っ張り出してきたのです。北欧神話っぽいですよね。しかも、換骨奪胎してプログレですから。まさにぴったり。

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そのような次第で、9/26の日記の続き、フリッツ・ラング「ニーベルンゲン」です。これには打ちのめされました。やはり凄いです。ただ、凄いとは、以前見たときにも思ったはずなのに、困ったことに印象が異なるのでした。以前は、第1部「ジークフリートの死」のほうが面白いと思ったのです。ところが見直してみると、第2部「クリムヒルトの復讐」の凄まじさに打たれます。最初にこの作品を見たのが、恐らく10代だったということもあるのだと思います。それは、人生経験とかの差の問題でもあるのですが、映画を見る経験の差も大きいのだと思います。

以下、ネタばれです。

第一部は、英雄ジークフリートが死ぬまでの物語なのですが、改めて見直して、最初に見たときの(幼い)印象が誤っていたと痛感させられたのが、ジークフリートアーリア人の英雄ではなく、明確に国外から来た異邦人として描かれている、という点です。そもそも、ジークフリートは、この映画の原作に当たる「ニーベルングの歌」では、ネーデルランドの王子となっています。北欧神話のシグルスの物語がベースになった、ドイツの外側の神話を、キリスト教社会が神々の物語から人間の物語に組み替え、これに12世紀の出来事とされるドナウ川流域のブルグント族滅亡の物語を合体させ、つまり神々の物語に(伝説の一種とは言え)人間の物語を接木して、ドイツで歌曲として完成させた作品なのです。と、こう書いてみると、「ハラキリ」における刃=ハラキリという《核》が、「ニーベルンゲン」ではジークフリートその人と見えてきます。彼は、一方では北欧神話の名残を残した、神の一族に連なる存在で、竜の血を浴びた無敵の王です。その無双の力ですべてを獲得し続ける(男性的な権力の、夢の結晶のような)存在です。対して、ブルグント=ドイツの人々は、普通の人々であり、魔力も何もありません。その人間の世界に舞い降りたジークフリートが愛憎を巻き起こしもします。いわば彼は強さや豊かな美しさと同時に人間世界の異物(排斥すべきもの=恐怖とは言わないにしても、脅威)として存在しているのです。そのゆがみを引き起こす存在にどう対処するか、というブルグントの忠臣ハーゲンの計略が、ジークフリートの殺害という形で達成されていくと言えます。

しかし、ジークフリートが引き起こすゆがみは、その超越的な存在を消し去ってもやむことはないのでした(ここに、ブルングト王グンターとハーゲンの誤謬がありました)。というのも一晩で二人の女の夫になってしまったことにこそ、ジークフリートの引き起こした最大のゆがみだからです(詳細は、最後につけたあらすじを)。異邦の王子様の圧倒的な魅力によって、ジークフリートはブルグントの男たちから女性を奪い去ってしまった。そして、女たちは、愛するにせよ憎むにせよ、もはや他の何者をも重視しない、ただジークフリートだけがすべてになってしまうのです(その周囲に女性の愛の争いが生まれることで、ジークフリートは、単なる王やその臣下、つまり男性的な権力への脅威ではなく、別種の、男性的な権力とは無縁に力を振るう恐怖を引き起こす核になっていきます)。

ジークフリートとひとめで恋に落ちるクリムヒルトはさておき、ブリュンヒルトですが、彼女が夫となるグンダー王を本質的に愛することができず、見下すのも当然だといえます。ブリュンヒルトの炎に守られた城に侵入し得たのもジークフリートの力ですし、自分に打ち勝った者を夫にするという女王ブリュンヒルトを本当に負かしたのもジークフリートだからです(彼は、魔法の網で姿を見せなくして、グンター王を手助けしたのです)。その炎に取り囲まれた城が、楕円形の奇妙な光に縁取られている映像をラングは作り出すのですが、どこか女性器をイメージさせるのは、意図的だといって差し支えないでしょう。荒々しい、炎の未踏の地を、力づくでこじ開ける、という話です。また結局グンター王に変身したジークフリートが、グンターに代わって初夜の床でブリュンヒルトを組み伏せもします。

実は、「ニーベルングの歌」の元になった北欧神話では、もともとジークフリートとブリュンヒルトこそが恋人同士であり、しかし忘れ薬を飲まされたジークフリートはブリュンヒルトを忘れ、クリムヒルトと結婚してしまうのだそうです。それが、「ニーベルングの歌」となる段でジークフリートとクリムヒントの恋愛話に変わったのは、物語的には「ニーベルングの歌」が後半に、クリムヒントによる愛ゆえの壮絶な復讐劇を控えているという必然性もあるわけですが、見ようによっては神々の力を、だまして手に入れる大元の神話から、本当にジークフリートという英雄を奪い去った、と言えるのかもしれません。しかし他方で、そこにこそ矛盾は生じ、普通の人々であるブルングトの人々ではなく、ジークフリート同様に超越的な力を持つ神話的な存在ブリュンヒルトこそが、ジークフリートにふさわしかったといえるのかもしれません。実際、映画の中でもブリュンヒルトは、ジークフリートを最初挑戦者だと思い、いきなりその胸にすり寄りさえします。

つまり、ジークフリートこそが、ブリュンヒルトが潜在的に求めた「愛する人」だといえそうです。にもかかわらず、(クリムヒルトを得るという)男性的な獲得の欲望のままにブリュンヒルトの扉こじ開け、無邪気にその入り口を人に譲ったジークフリートはやはり罪深いとも言えますし、また、自ら進んで、普通の人々と神々の世界の共存という矛盾を生み出す≪核≫となったのだ、とも言えそうです。

その意味では、ジークフリートのことで言い争ったグンター王の后ブリュンヒルトとクリムヒルトの言い争いのシーンは印象的です。教会の大聖堂の前で言い争った二人は、その内容はともかくとして、結局共に教会には入らずに背を向けて去っていく。言い争いの内容は、どちらの夫のほうが優位か、ひいてはどちらの女性のほうが優位であるか、というものです。夫を辱められたクリムヒルトは、ついブリュンヒルトの初夜を破ったのが夫であることを暴露してしまいます。それを愚かしさというのは正しいですが、その本質、復讐の本質のなかには、二人の女がジークフリートを争っていたことが秘められているように思います。というのもブリュンヒルトは、卑劣な夫のことなどまったく問題視しないからです。彼女にとって、「対象」はジークフリートしかない。ブリュンヒルトはジークフリート殺害を夫とハーゲンに詰め寄り、実行させるのです。屈辱を晴らしてグイダーの妻としておさまる気などないのです。こうして、女二人の焦点は定まります*1

そこでは、キリスト教一神教的安定ではなく、半神半人間のジークフリートという危うい焦点が浮かび上がる、と言い換えられるのかもしれません。またそこに生じるゆがみは、ジークフリート本人ではなく、彼に向かう女性たちの思いが引き起こすゆがみであって、また宗教の対比物であるという点においても、ジークフリートの死後損なわれるものではないのです。

ニーベルングの歌」では、ブリュンヒルトは自害していないのに、映画ではさせています。実は、元となったシグルスの物語ではブリュンヒルトは自害しており、「ニーベルングの歌」ではそれを排除するのですが、ラングは敢えて自害の道を選ばせます。これは「ハラキリ」でもそうであったように、ある種の徹底です。表面的な物語としては屈辱に死んだことになるのでしょうけれど、「ニーベルングの歌」の成り立ちなども踏まえて考えるに、ジークフリートの足元で自害させるのは意味深長です。そこは聖堂の中なのですが、映像において中心は十字架ではなく、ジークフリートの亡骸となっています(そもそも、この映画では司祭、または教会の存在は非常に希薄です)。そこにやってきたクリムヒルトが、ブリュンヒルトの死を発見します。そこに陰惨な愛の物語としての徹底として見ることが出来ると思います。また、アンチキリスト的な中心を、映画の可能性として見出すことが出来、映画としてはこの視点がかなり大事ではないかと感じます。

この2部作は、第1部をブリュンヒルトの復讐、第2部をクリムヒルトの復讐の物語ということもできるでしょう。そこで復讐されるのは、ともに男性的な権力です。第1部ではブリュンヒルトの復讐によって、ジークフリートの死により達成されます。しかし、前述のように、ジークフリートという権力の中心は、かなり危うい、ゆがみを孕んだ不安定なものでした。彼は、半神的な存在で、異邦人で、すべての女性の心を奪うことで、人間たちの権力システムを破綻させてしまったのです。第2部では、すでに天真爛漫なジークフリートという中核が失われた、地の権力が(王はある意味、自らの手で自らを去勢したかのようである)、クリムヒルトによってくじかれていくのを描くといえます *2

結婚も、自らの子供も、すべてがジークフリートを奪ったものたちへの復讐にささげられる供物に過ぎないかと言わんがごときクリムヒルトは、仇が勇者であること(男性的に立派であること、国を守っていること、王を守っていること)などはまったく考慮せず、全滅させていきます。人間の社会では、彼らは異邦人=ジークフリートから国を守った勇者なのです(実際、立派に闘いもします)。しかし、女性から見れば、そうした男性的権力は、すでにくじかれ、愛すべき中核は(もはや存在しない)ジークフリートになってしまっているわけです。ここに、後戻りできない(女性の)復讐劇が始まるのです。もはや存在しないがゆえに、ジークフリートの不在は、埋めようがありません。

第一部はジークフリートという、男性的な権力が、人間性と超越性を兼ね備えているという矛盾を孕みながらも、ただただ獲得を続ける直線的な物語だったといえます。しかし、第二部では、そうした中核が失われてしまったあとの、男性的権力がまったく意味を成さなくなった女性と、男性的権力に意味があると思う男性との、不毛な潰しあいとなるわけです。そこに広がる、何一つかみ合わない、もはやどこにも新たな発展をしていきそうに無い、物語が無意味となり、何もかもがただ滅んでいく世界観は、映画において、非常に重要なイメージ、映画の本質を指し示していると感じます。すべてがスクリーン=無に帰結する、とか言うと、やや御伽噺になってしまうとはいえ、フリッツ・ラングにとっては、ゆがんだ強く、豊で、恐ろしいものが、矛盾の果て、帰還可能な折り返し地点をとおに越えてしまったところで、それ自体まったく無意味であるかのように消えていくこと、そのすべてを置き去りにする鮮やかさまで含めて、映画であるのではないかと思います。それは「ハラキリ」だけではなく、多くのラングの映画で見出すことの出来る瞬間だと感じます。

ところで。愛すべきは第1部、竜との対決シーンです。張りぼてっぽい緩慢な動きはともかく、結構ちゃんと火を吐くのですね。その姿いじましくも素晴らしく、かつ(撮影が)危険でもあったと想像されることもあって、気合を感じるところなのでした。

(あらすじ)

第一部 ジークフリートの死

王子ジーグフリートは竜を倒して、その血を浴び、無敵の体を手に入れるが、背に張り付いた菩提樹の部分だけが急所となって残る。その無敵な力で、数々の国をその無敵の戦闘力で配下に収めたジークフリートは、いよいよ話に聞き、ずっと焦がれていたブルグント王グンターの妹クリムヒルトに求婚をしに、ブルグントを訪れた。

ブルグントの忠臣ハーゲンは、一計を案じる。グンター王を妹よりも後に結婚させられぬ、グンターが愛する3度打ち勝たなかれば相手を夫と認めないという炎に守られた城の女王ブリュンヒルトを、替わりに打ち負かせと、ジークフリートに告げ、王たるものが配下として働けるかとジークフリートはいきり立つが、クリムヒルトの美しさに負け、その願いを聞き入れる。ブリュンヒルトの元に赴いたジークフリートは、岩投げ、跳躍、槍投げ(槍で相手の盾を粉砕する)でブリュンヒルトに見事勝利し、彼女をグンターの手に引き渡すことに成功する。しかし、その初夜の晩、グンターはブリュンヒルトを組み伏せることが出来ず、やはりハーゲンの忠言で、ジークフリートが替わりにブリュンヒルトをねじ伏せ、初夜の晩を迎えさせるのだった。

かくして、ブリュンヒルトは王妃となり、ジークフリートもクリムヒルトを手に入れるのだが、ブリュンヒルトは王妃としての地位を誇るためにクリムヒルトにつらく当たり、対等な兄弟のはずのジークフリートをグンターの配下と賤しめたため、クリムヒルトが逆上、夫から聞いていたブリュンヒルトの初夜の秘密を彼女に暴露してしまう。名誉を激しき傷つけられたブリュンヒルトは、自害しようとしてとめられるとグンターとハーゲンにジークフリート殺害を要求、兄弟同然のジークフリートを殺すことをグンターはためらうが、ハーゲンは殺害を支持する。その背景には、臣民の支持を集め始めたジークフリートを国内においておくことへの危惧や、彼がもたらしたニーベルンゲンの財宝を確保する考えもあった。もちろん王妃の自害を止めるためでもある。そこで、無敵のジークフリートを暗殺するためにクリムヒルトをだまし、ジークフリートを守るためと告げて、彼の唯一の弱点がわかるよう、服に印を付けさせることにハーゲンは成功する。そして、狩りに誘い出し泉の水を飲むジークフリートの背後から、ハーゲンは槍で急所を突きジークフリートを殺害、超自然的な力を持った美しき英雄は、こうして倒される。しかし、ブリュンヒルトは殺害を実行した王を嘲り笑い、聖堂に安置されたジークフリートの足元で自害して果てる。クリムヒルトは兄グンターや兄弟にハーゲンの首を要求するが、ハーゲンを殺すことは出来ないとグンターたちはかばい、クリムヒルトは復讐を誓う。

第二部 クリムヒルトの復讐

ジークフリートの喪に服し続けるクリムヒルトの元に、フン族の王エッツェルとの再婚話が舞い込みます。クリムヒルトは、彼女が王の領地で侮辱された場合はそれを殺害すると約束させ、結婚を承知します。一方、ハーゲンは、クリムヒルトにジークフリートの財宝が奪われぬよう、それを城の地下の湖深く、沈めてしまいます。やがて、クリムヒルトに子が生まれます。エッツェル王はそれを大変に喜び、褒美をクリムヒルトに聞くと、クリムヒルトは自分の兄弟を城に招くように頼みます。クリムヒルトの目的が復讐にあると悟ったブルグントの一行(王をはじめとするクリムヒルトの兄弟やハーゲン)は、武装して食卓に臨み、クリムヒルトがそそのかしたフン族が王の手下を攻撃し始めると、ハーゲンがまずはエッツェルとクリムヒルトの赤子を殺害、押し入ってきたフン族と混戦になりますが、エッツェル王やクリムヒルトを庇護しつつ、結婚を仲立ちした辺境王が死地である広間を脱出、ハーゲンたちは広間に立てこもって多数のフン族を迎え撃つことになります。以後はひたすら戦闘に告ぐ戦闘で、手ごわいブルグントの騎士たちの手で多数のフン族の死者が出る中、しかし次第にブルグントの騎士たちも斃れていき、クリムヒルトの弟が殺され、クリムヒルトに立てた誓いのために辺境王とその部下もハーゲンと対決して全滅、遂にクリムヒルトの命令で、広間に火がかけられ、崩れ落ちる建物の中で勇者たちは全滅状態となり、最後にやはりクリムヒルトとエッツェルの結婚を仲立ちした一人、ディートリッヒはエッツェルの部下として遂にハーゲンとグンター王を捉える(あるいは救い出す)のですが、ジークフリートの宝を返せと迫るクリムヒルトに、ハーゲンは王の命があるうちはその秘密は漏らさぬと誓ったといい、間断をいれず実の兄であるグンターの首をクリムヒルトが落とさせると、今度はこれで私と神以外に秘密を知るものはいなくなったと高らかに言う。クリムヒルトは、ハーゲンから奪い返した亡き夫の名剣で一刀のもとハーゲンを切り殺し、自らもその場で憤死、結果ブルグントの一族はここに全滅する。

*1:クリムヒルトの積極的な愚かしさ、夫の唯一の弱点を、味方の振りをしたハーゲンに教えてしまうことも含め、本質的/無意識的には、一種の復讐が、ジークフリートに対してなされた、という見方も、面白い気がします。多情な夫にたいしての復讐と、死による独占。ひたすら獲得し続けるジークフリートという天真爛漫な力を抑止し、彼の永遠の恋人となるために彼を殺した、という言い方ですね。

*2:神の力=人間の力を超えた力で、人間の益になすためにジークフリートを使おうとする人間たちが、自滅するまでの映画として、この2部作を見ることも出来るでしょうね。