成瀬巳喜男(11)/ Andrei Zueff

BGM : Andrei Zueff「Kitchen Works」

ロシアのテクノミュージシャンによる、キュートでチープでゲーム音楽っぽい楽しい音楽。T3「All Morning Starz」とか、ほのぼのです。T4「Electric Blue」もいい味。ひねるところはひねっています。T14「Space Disco」とか言う曲でも、まったく踊れなかったり、T7「ENKA」はたぶん日本の演歌だと思うのだけど、やっぱり演歌じゃない、なんか、言葉のイメージで適当にやってるでしょう、という感じが、また何とも言えずによいです。

日本版のジャケットデザインが可愛いです。ここに写真がありました

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成瀬巳喜男の「桃中軒雲右衛門」は、「歌行燈」同様、芸道ものなのですが、そうなるとまたしても、何者にも屈しない強烈な自我の存在が、死地を乗り越えて強く生きていくという話になるわけです。明治・大正時代に活躍し、浪曲界で一時代を築いた実在の人物・桃中軒雲右衛門を月形龍之介が演じています。師の妻であり、優れた三味線引きであったお妻を奪い、九州に落ち延びて、博多で名を上げるまでの物語は、映画では省略されます。彼を罪人としておった東京を見返してやる、強い意志の元上京したはずの桃中軒雲右衛門が、車中で心変わりをし、幼い頃行き倒れた記憶のある、その生い立ちの傷こそを力として芸を磨いてきた桃中軒雲右衛門の原点にて、途中下車をする、そこから映画が始まります。

以下、「浮雲」「桃中軒雲右衛門」「勝利の日まで 藝能戰線版第二輯」「三十三間堂通し矢物語」ネタばれです。

そういえば「歌行燈」も、列車の中で、花柳章太郎演じる能の若師匠が、様々な噂話を聞きいらだつところから映画が始まります。列車は、複数の人間を内包するミニ社会としてのあります。「歌行燈」にしろ「桃中軒雲右衛門」にしろ、車内での噂話、評価が、そのまま世の評価だったりするわけです。あるいは、その世の評価が間違っていたために、「歌行燈」で花柳は道を誤った、とも言えるでしょう。遠距離への移動、そこにおける、限られた、しかし狭いながらも機能する社会としての車中。そこでは、様々な心の変化が起こりえるわけですが、これは、列車が映画に対してもつ、基本的な機能であるように思います(とはいえ、成瀬は映画のなかで交通機関をどう機能させるかにおいて、非常に鋭敏な作家であったことも間違いないと思います)。いろいろな映画で、そうした心の移ろいを、列車の窓からのぞく風景とあわせて、無数の映画の中で見てきたように思うからです。ごく最近見た中では、リチャード・リンクレイターの「ビフォア・サンライズ 恋人たちの<距離>」の冒頭などが思い出されます。

彼は「沼津」を越えて、東京へと入るのか。最初はくじけそうだった桃中軒雲右衛門も、思いなおし、遂に決意して東京に乗り込み、大成功を収めます。芸のためなら、浮気もする、妻も子もない人物です。人格者などではなく、むしろ、のたうちまわって生きてきた、傷だらけの自分だからこそ高められた芸であると自負しています。しかし、成功すると、新聞や彼の周囲を取り囲む目は、彼に人格者であることを求めはじめる矛盾に直面する。しかし、桃中軒雲右衛門はそれら一切に屈せず、死の病に妻がついていても、弱い女としてではなく、強い芸人として、三味線のパートナーとして死んでくれ、と伝言させ、愛人を家にあげ見舞いにすら行かないのでした。また、お妻も、その桃中軒雲右衛門の言葉を受けて、晴れて決意が固まるのです。女としてかわいがったんじゃない、私の三味線を食ったんだ、と桃中軒雲右衛門に詰め寄ったお妻ならではだといえます。「歌行燈」同様、強き求道者たちの映画となっているのでした。

桃中軒雲右衛門が周囲を取り囲むものに如何に屈しないか、については、障子越しに彼に声をかける官吏の偉いさん(明治・大正時代です。その権限は、今をはるかにしのぐもので、一芸人が抵抗しうる相手ではなかったはずです)を完全無視するシーンが印象的です。彼は師匠と昔話にふけるっています。官吏の声は聞こえている、周囲の芸者がおろおろし、声が次第に高まっていく中、なお桃中軒雲右衛門は超然とし、またその師匠とて、同様に落ち着き払っているのです。桃中軒雲右衛門と師匠の切り返しと、その合間に挟まる障子の外と内(芸者たち)のカットが生み出す緊迫が、成瀬の芸道ものの基本スタンスになっているのかもしれません。彼らは、他者などお構いなくただ強く、そこにいて、調和を作り出しているのです。

そうした、強者たちの対話を、外部から損なおうとする弱者の声、というモチーフは、「三十三間堂通し矢物語」でも見出せるでしょう。珍しい時代劇です。戦時下の作品だからか、武芸の道を追及する長谷川一夫の物語です。アクションもあります。

しかし、芸道ものに類するこの映画が一番輝くのは、通し矢8000本の偉業をさらに越えていこうとする青年の心の揺らぎを描く部分にも、それを乗り越え目的を達成するところにも、自らの立てた記録を越えていこうとする若人を、弓への求道的な強い意志から敢えて守り支える長谷川一夫にあるのでも、その二人の間にあって、青年を支え続けた母親代わりの若女将(田中絹代)にあるのでもなくて、そうした意思を持って目的をやり抜こうとする強者たちの足を引っ張ろうと登場する長谷川一夫の弟(河野秋武)、家名のために、武人の誇りなどはまったく省みない、卑怯な手を使ってでも、家名を脅かそうとする青年の邪魔をしようとするその弟にあると思います。いわゆる時代劇的な言い回しの演技をする俳優たちの中で、短文言い切り口調で、現代的な利害関係を持ち込む河野秋武は、映画のなかで、達成へと向かう運動をどんどんと切断していきます。それでも結局は、強者の調和に満ちた達成を妨害することは出来ないのですが、それが「歌行燈」のような過剰(異常)な美しさとまで行き着かない本作では、本来の、というと語弊がありますが、実に成瀬的な人物、卑劣な河野秋武の存在にこそ、成瀬の映画を感じてしまうのでした。強者と弱者の相克のなかでの、バランスがどちらに傾いたか、ということに過ぎないのかもしれませんが。ふてぶてしく当たり前のようにそこにあって、いらだたしい切断を随所に施していく河野秋武が見せる世界の美しくない側面にこそ、成瀬らしい冴えがあると思うのです。

このことは、「まごころ」「生さぬ仲」における少女の祖母像、「君と行く路」における母親像などにも通じていく話ですね。男性ばかりでもなければ、男女の仲ばかりの話でもないわけです。

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ところで、では成瀬でもっとも恐ろしい乗り物はなんでしょう。三輪車かもしれない、と思います。見直して初めてその不気味さに気づいたのですが、「浮雲」の1シーン、ようやく探し当てた森の元を訪ねた高峰が、森と共に暮らしている岡田にばったりと会ってしまう、そこで、廊下を子供の三輪車が走っています。岡田が去ったあと、森を待つと決め、勝手に部屋に上がりこみ、廊下を走る三輪車の子供と目があって、問いただします。ここのおじちゃんは帰ってくるの、いつ帰ってくるの…。そこに森が帰ってくるわけです。高峰は、森に、子供を宿していること、それで森を探していたこと、しかし踏ん切りがついたことを告げます。子供を宿していたという事実が、直前の三輪車の子供の不気味さをさらに強めます。そこに存在している子供は、森と高峰が得られるか得られないかわからない、危うい存在なのです。三輪車は、もっとも遅く、もっとも地に縛り付けられたその乗り物として、そうしたどうにもならない場所に立たされた人間の重力を、そのまま象徴するかのようです。「女が階段を上るとき」の高峰秀子の周りをぐるぐる回る、あの不気味な三輪車も思い出しています。

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「勝利の日まで 藝能戰線版第二輯」は、「徳川夢声演じる博士が焼夷弾ならぬ「笑慰弾」を開発」(FCの成瀬巳喜男特集HPより)し、古川緑波高峰秀子ら助手に発射させると、目的地の島で爆発、様々な歌手が飛び出して歌ったりするという話で、テレビカメラの表現(スクリーンプロセス)や、現地に着いた爆弾から飛び出す歌手のサイズが大きかったり小さかったりする特撮が面白い作品です。成瀬って、映像的なギミックとその表現としての可能性を、意外に追求してきた人だと思うのですね。作品によって、カメラワークとかをがらりと変えたり、意識的にしています。ギミックの使用された映画としては、「女の中にいる他人」「雪崩」などを思い出しますね。

しかし、そうした作家・成瀬巳喜男よりもこの映画ではひたすら高峰秀子のメイド服に萌えてしまいました。しかも、めがねっ子です(笑)。オタク文化と呼ばれるものは、実はそう新しいわけではなく、ただ顕在化しただけなのかもしれない、とか、ぼーっと思いながら見ていたのでした。