成瀬巳喜男(10)/ Jon Rose「The Fence」

BGM : Jon Rose「The Fence」

Fence

Fence

Locus SolusのHPによると、「近作2作品を収録。『ザ・フェンス』はアイルランド、ベルリン、朝鮮半島ボスニア・ヘルツェゴヴィナ等々、紛争地帯に付き物の各地の柵(壁、境界線、国境…)をテーマにした音響ドラマ。創作弦楽器(ときには20メートルにもおよぶ巨大なもの)、鉄条網、高圧線等の弦の響きを音響的に研ぎ澄ましたような演奏に環境音と語りをミキシング。後半の『ドラベッラの風呂』は古代ローマの入浴場で繰り広げられる政治的頽廃ドラマ。環境音と弦楽アンサンブルのサンプリング、女声の語りから構成されるお馴染みのジョン・ローズ・ワールド。」とのことです。

ジョン・ローズは、そうした音以外の部分の情報とあわせて聴くことで、数倍面白くなります。それは、音自体に+αのトリビアな面白さが加わるという意味では、決してありません。そうではなく、そうした周辺も含めて、ひとつの作品(パフォーマンス)であるということです。

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成瀬巳喜男の「浮雲」の続きです。

この映画のなかで高峰秀子は、数回「手紙見た?」と男に(ほとんど森雅之にですが、1度だけ山形勲にも)尋ねます(その尋ね方は実にステキで、なにかなげだす様な疲れたような、少しかすれた声で、耳に残るのです)。その台詞を聞く際に男は、すでに高峰秀子のところにやってきている、あるいは高峰秀子が尋ねてきています。手紙の内容は台詞から推察するばかりですが、用件はすでに伝わっているようです。森雅之は、その問いかけに確か一度「見たから来たんじゃないか」と応えていたように思います。

すでに伝えるべきは伝え終わっている(それどころか、思いを巡る部分では、。その上で、男女が会う。思うに、それはこの映画にふさわしい男女の会い方ではないでしょうか。また、電話ではなく手紙(届いているかどうか判らない言葉)は、不意に、男女を同じ空間に吸い寄せもすれば、高峰が森に言う恨み言のように、何度手紙を出しても、森は引越し先も教えないため、高峰が探し回らねばならないということもあるわけです。その、吸い寄せあう引力と真逆の、しかし(だからこそか)距離を置くときは残酷なまでに突き放した距離がある二者の関係も手紙の返信が無いことに象徴されていきます。判っているのに、なお森はいくたびも高峰を避けるのです。

以下、「浮雲」「朝の並木道」「二人妻 妻よ薔薇のように」「君と行く路」ネタばれです。

と、手紙が重要な役割を果たしながらも、この映画では肝心の手紙を書くシーンというのはまったく出てきません。恐らく、高峰は森に逢いたいと思って手紙を書いています。しかし、それがどのような内容であれ、届いても無視されるという現実、また届き男女が逢っても、以前の情熱はよみがえらないという現実の前では、恐らくその内容は無意味だ、ということかもしれません。だから、手紙を切々としたためるシーンなどは無い。ただ、電報を打つシーンだけは、ありました。温泉宿に高峰が森を呼び寄せるところです。「だいたい来なければ死ぬなんて電報は非常識だね」と森は高峰に言う。その一切の途中説明を欠いた内容の電報は(電報ですから、短信は当然なのですが)、この一組の男女のあり方そのものです。

手紙を書く代わりに、仏領インドシナの思い出について、森がまとめようとしているシーンはありました。冒頭の2行を書き始めて、すぐに丸めて原稿用紙を捨ててしまいます。岡田茉莉子加東大介に殺されてしまったあとのシーンだったはずですが、一人残された暗いアパートの一室です。カメラは、森の横顔を捉えていたはずです。原稿用紙も映し出されます。ナレーションで最初の2行を、森の声が読み上げます。このどこの、誰にも向かわずに捨てていかれる内面の声こそが、高峰と森が共有している、切り離せないが、といって何も新しい輝きを帯びては行かない思い出なのでしょう。それは、やはり高峰と森の間で交わされる「手紙」ではなく、くずかごへ捨てられていく「誰にも見られることの無い原稿用紙」にしたためられるものなのだと思います。

「手紙」といえば、「朝の並木道」のヒロイン、田舎から死後をと探しに東京にくるが、結局は女給になってしまう千葉早智子を思い出します。店の常客で、彼女をひいきにし、彼女も慕っていた大川平八郎が、栄転で遠くに去っていくことを聞いた朝。ラストシーンです。愛しい男性の住所を、よければ手紙でも書いてくれ、と手渡されたのに、男が去ったあとカフェの外を流れている小川にあっけなく流してしまうのでした。この場合、手紙自体、書かれることが拒絶されています。

もしかしたら、成瀬自身のオリジナル脚本によるこの千葉のほうが、ずっと成瀬的なヒロインかもしれません。手紙のように、不用意に男女を同じ場所に呼び寄せるようなものは、はなから避けられなければならない。「朝の並木道」は、田舎の家を出る千葉がバス停で待つ姿から始まる映画です。美しい自然の中、バスが走り去っていく(確か、川辺を走っていたように思う)。その美しさをあとにして、東京に来た千葉は、実は女給をして生計を立てていた友人に、「早くいい人を見つけて、田舎で結婚したほうがいいのに」と言われ、言下に「田舎はいやなの」と言い放ちます。その切断。それが、映画のラストでも繰り返されるわけです。彼女は、田舎がいやだった。女給をするのであれ、東京に、後戻りの出来ない旅立ちをしているのでした。彼女は、小さな川の小さな橋を渡って、カフェへとたどり着きます。またその橋のところで、東北へと去っていく大川と別れ、その住所を川に流すわけです。それもまた、成瀬のヒロイン的な態度ではないかと思います。

ところで、その別れの朝の直前に、千葉は、【大川が実は公金を横領して、自分のところに遊びに来ており、結婚の約束をしていった旅先で、心中を迫られるがそれを拒絶する】という「悪夢」を見ます。苦しくても二人で生きていこう、と死を拒絶する千葉。それは「夜ごとの夢」でやはり女給に扮していた粟島スミ子と同様の強さですが、しかしいささか不自然に唐突に始まる犯罪映画が瓦解する夢オチでもあります。むしろ、ここで強められているのは、東京という場所を去ることへの、千葉の拒絶かもしれません。彼女は、(理由は特別明らかでなくとも)生きていくことを東京にあることだと決めているのです。だから、大川について、死=東京の外に出ることは、選択肢には無いのです。しかし、成瀬的な残酷さは、その死=東京の外にこそ、一番美しく輝く千葉がいる、というところにあるのですけれど。大川をとめるために、目に涙をいっぱいに溜め、説得しようとする千葉の、強い愛と美しさ。それもまた、夢オチとして瓦解するのです。

そういえば「秋立ちぬ」のなかで家出した乙羽信子が兄に送った手紙は、子供のことをよろしく頼むと書かれているわけですが、結局息子へはその手紙のことは知らされないのでした。そこでも、手紙は挫かれているといえそうです。手紙を書く・読むシーンは、映画において非常に重要なシーンとなりやすいわけですけれど(内面が前面に出やすいわけですしね、物語的に当然です)、それだけに成瀬の、手紙を送るにしても、はなから書くこと自体を拒絶するにしても、どこか「手紙」という道具自体を挫くような身振りは面白いように思います。他の成瀬の映画ではどうだったでしょう?

田舎と東京、というキーワードで考えると、千葉早智子は、「二人妻 妻よ薔薇のように」では、都会から田舎に、父親を迎えに行く娘役でした。どこかキャサリン・ヘプバーンを意識させたかのような、モダンガールの千葉は(そういえばタクシーを止めるために、映画で見た身振りといいながら、親指を挙げてヒッチハイクのポーズをとるシーンがありました)、和装の千葉が繁華街におぼつかない感じで立つ「朝の並木道」とは正反対の勇ましさで、田舎のあぜ道に、しゃれたスーツ姿で立つのでした。

夫とはまったく気持ちがあわず、しかし不在となると思ってしまう東京の本妻とその娘(千葉)、そしてその男を支え、男に代わって本宅への仕送りまでしていた愛人とその家族の物語です。男は金鉱を探していつか一山あてようとしているのですが、人はよさげだがどう見ても成功しなさそうな貧相な顔立ちの俳優が扮していて、到底無理だろうと見ただけで判ってしまう。人はいいが駄目な父親という弱い存在を軸にしているわけですから、おのずその夫を挟む女たちのドラマになるわけです。東京の本妻から見れば、ようやく娘が夫をつれて戻っても、共にいて話はあわない、気持ちはあわない。たとえば歌舞伎を見に行くと、夫は寝入って舟を漕いでしまう、本妻は恥ずかしくて娘に促して、外に出てしまうのです。同じ方向を見る、共に歩く、といった運動が、ことごとく挫かれて、夫は逃げるように帰ってしまいます。つまり、そこには成瀬的な、ある男女の単位が、まったくそれとして成立し得ない様を描くわけです。これに対して、長野の、愛人宅での父親の暮らしは、家族との調和の取れたものになっています。

浮雲」で言えば、戦中の仏領インドシナと戦後の日本で隔てられていた不可能な距離が、ここでは水平軸の、東京と田舎という往復可能な距離となった、ということでしょう。しかし、田舎の愛人から見れば、物語的・社会的には彼女たちこそ、正当な夫婦としての男女関係から隔てられており、そのパラレルな二人妻の関係が、この映画において、成瀬的な「残酷さ」の構図を作り上げているわけです。

その図式を浮かび上がらせるのが、モダンな若い娘・千葉です。実に成瀬的ではないこの映画の第3のヒロインの千葉は、恋人ともうまく行っており、まるで漫才コンビであるかのような軽快な掛け合いを見せるのです。それはしっとりした二人妻の物語と、まったく別種の物語になっています。映画の冒頭、ウルトラモダンなオフィスで、きまったスーツで残業をしている千葉のショットから、彼女は二人妻の物語とはおよそ関係ない、まったく別次元にもその足がかりを持つ存在なのです。おそらくそんな千葉だからこそ、田舎と東京との(本来隔てられた距離における)往復が可能だったのでしょう。とはいえ、完全な傍観者として別次元にいるのでもありません。千葉は(当時のこの年代の働く女性としてはそれほど不思議ではないのかもしれませんが)、家の中では和装になり、とたんに家庭的な存在になります(料理も良く作ってますし)。そしてその和装のときには、涙を浮かべて父の愛人に語りかけ、必ず父を戻すからと、二人妻の物語の文脈にふさわしいしとやかな身振りも見せたりするのです。一方、洋装で父を東京に連れ帰るときには、もう父を戻したくないと改めて誓ったりもします。その振幅を矛盾なく生きているからこそ千葉は、「二人妻」のみならず、「二人妻の物語(あるいは東京と田舎という距離)」の「仲立ち」を可能にしているのだと思うのです。

言ってしまえば、千葉は、二人妻の相互の意思を伝達する伝達係=「手紙」として存在していて、東京と田舎を行き来することで、映画に「浮雲」とは違う軽やかさを与えているのです(しかし冷静に考えれば、二人の妻に対して一人の夫、本妻に対して愛人、といったひずみは、一切埋まってもいないのでした)。

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なんて事を書いたあとに、「君と行く路」を見ました。この作品では、手紙は、恋仲の大川平八郎と山縣直代を裂くために、ひたすら正常な交換を妨害され続けるのでした。しかも、それでもなお仲立ちする人間がいると知ると、山縣直代の母親は、紙を奪い、ペンを奪って、手紙を書かせまいとするのです。それでも、隔てられた不可能な距離をどう埋めていくか、という映画です。

恋愛において、心中を達成するほど強い気持ちを抱いていた男女ですけれど、しかし、一緒には死なせてあげない、心中としてのカタルシスは許さず、あくまでバラバラに隔てるのでした。まず大川平八郎の自殺が意思表示となり、友人を通じて、一種の「手紙」として届けられる、そして山縣直代も死ぬ、という形を取るのです。その身も蓋もない切断ぶりは、いかにも成瀬の脚本らしいところです。手紙=間を仲介する友人は、心中へと向かっていく男女の間のひとつの歯車として機能させられます。前半では、愛の橋渡しをしていた同じ少女がです。その残酷さもまた、成瀬です。

すでに確認された感情や、埋めようのない隔たりの現実を、ただ露呈してしまう成瀬的手紙は、どうしたって幸福な結末など導き出さないのかもしれません。大川平八郎は迷わず、「海」に転落死し、山縣直代は家の「池」にうつぶせで浮かんで死んでいるのでした。

が、一番この映画で残酷なのは、こうして達成された「心中」というひとつのメッセージ、これも手紙だと思うのですが、を、二人を直接的に追いつめていった「親」が、まったく理解しないところにあります。大川の母親(清川玉枝)は、芸者上がりの母親を愛しながらも、同時に恥じ、その拝金主義や俗物性を嫌悪し、それが結果的に死への傾倒に繋がったにもかかわらず、息子・大川の気持ちもわからないまま、あとから飛び込んできた山縣の死の知らせに、あの子も親の言うことを聞いておけば良かったのに、としらっという。それを聞いて弟(佐伯秀男)は、母親に向かって「ばか!」と投げつけて、映画が終わるのです。死んだ息子と恋人の死を悼むのではなく、一切理解しない母親こそ、この映画に走る最大の断絶なのでした。

これは演出上も現れていますね。上流階級メロドラマ的な演技をするその他の俳優たちの仲で、ひたすら芸者上がりの、世慣れた早口で、下世話なたとえを多数繰り出す清川玉枝は、その存在自体が、映画の全般的な文脈を滞らせ、断ち切る機能を果たすのでした。その変えようのない存在自体が、ただある、ということ。そこでは、メッセージなどなんの意味も持たずに、呑み込まれ、行方不明になっていくのでした。