悪い知らせ / がんばれ!ベアーズ / Robin Rimbaud

BGM : Robin Rimbaud「The Garden Is Full Of Metal」

Garden Is Full of Metal

Garden Is Full of Metal

Robin RimbaudはScannerの本名。デレク・ジャーマンに捧げたアルバムです。Scannerが、踊れないなりにダンスミュージックを目指しているとして、こちらはドローンなエレクトロに様々な声がコラージュされて乗っている、まったく踊れない感触の作品で、実はこっちの方が好きです。大変気持ちいい。

無数の声のなかには、記憶が、そうであり、しかし一見して単なる音(表面)として並んでいる。なんてことを、CDに納められた7分の短編映像を見ても思います。

と、なんやかんや言っても150回分、記事を書いたようです。誰かが読むかもしれない場所に、150回分、それなりに頭をひねって、ものを書いていることは、読み直していたらぬところを多々見つけるにしても、まあ、悪いことではないはずだ、と思っています。しかし、そう思えるのが、いつまでなのかは、自信がありません。

ブログの名前こそ、頑張っていますけれど、「悪い知らせ」をそこら中に思い知らせる気概は、それほどはないということです。

マイケル・リッチー監督作「がんばれ!ベアーズ」(THE BAD NEWS BEARS)が作られたのが1976年。アメリカン・ニューシネマ的な、うらぶれものたちの逆転劇を、少年野球のダメチームに移植、ファミリー映画のにした本作は大ヒットし、<アメリカン・ドリーム>を掴み(あるいは掴んでしまい)、気づくと翌年(1977年)にはアストロドームで大活躍(「がんばれ!ベアーズ 特訓中」)、翌々年(1978年)には日本まで遠征して欽ちゃんの家族対抗歌合戦にまで出場(「がんばれ!ベアーズ 大旋風」)と、バブル化、若人の怒りや反骨心などはどこかに飛び去ってしまい、3代目の監督はトニー・カーティスだったりもして、1980年代アメリカ映画への傾斜を象徴するようなシリーズになっているのでした。

がんばれ! ベアーズ [DVD]

がんばれ! ベアーズ [DVD]

さて、30年後。「ウェイキング・ライフ」「ビフォア・サンライズ 恋人たちの<距離>」および「スクール・オブ・ロック」のリチャード・リンクレイターが「がんばれ!ベアーズ」をリメイク、「がんばれ!ベアーズ <ニュー・シーズン>」を監督するにあたり、驚くほどに基本的なストーリーラインをなぞっていることは、驚くよりも、当然のことなのかもしれません。何か、失われたものを取り戻そうとする。そのためには、まずは原点(原典)に忠実でなければならない。

ビフォア・サンセット / ビフォア・サンライズ 恋人までの距離 ツインパック (初回限定生産) [DVD]

ビフォア・サンセット / ビフォア・サンライズ 恋人までの距離 ツインパック (初回限定生産) [DVD]

スクール・オブ・ロック スペシャル・コレクターズ・エディション [DVD]

スクール・オブ・ロック スペシャル・コレクターズ・エディション [DVD]

しかし、いくつかのマイナーチェンジと、演技・演出において、原点(原典)に忠実ながら、同時にまったく別のものにしてしまうという演出をリンクレイターはしています。端的に言えば、見終わったあとすがすがしい感動がやってこない(笑)。それも、あえてやってこさせないのです。そこに現代の映画作家としてのリンクレイターが見えてきます。

以下、ネタばれです。

一番重要な変更点は、両足を麻痺させた車椅子の少年の登場ではないでしょうか。ユニフォームを着て、練習に参加しながら、といってプレイは出来ないはずの彼を、試合の勝ち負けにこだわるのが野球ではないと思い直したコーチ(ビリー・ボブ・ソーントン)が、最後に出場させてしまう。その時点で原点(原典)の「がんばれ!ベアーズ」が保っていた、ダメ選手でも可能性があるという「見栄え」を、どこかなし崩しにしてしまったように思うのです(言い換えると、バブル化への道を徹底的に絶った)。

また、「がんばれ!ベアーズ」で一番感動を誘った、まったくプレイが上達しなかった少年が最後にやっと捕球できるシーン。これが、リンクレイター版では、結局捕球に失敗し、はじいた玉を車椅子の少年がさらに捕球する、という「偶然の出来事」に変えられています。つまり、安易に上達などさせない、下手なやつは下手なのです。

この、一種の残酷さ、負け犬は負け犬だよね、という残酷さは、コーチ役の差、ウォルター・マッソービリー・ボブ・ソーントンの差でもあると感じます。「がんばれ!ベアーズ」のウォルター・マッソー演じる元マイナーリーグ投手、今はアル中のプール掃除人は、うらぶれてはいるもののどこか飄々とした感じを漂わせ、ダメ大人だけど一種自由人的な味わいも残しているのでした。そこには、素朴な肯定がある。対して、リンクレイター版では、同じ台詞をしゃべっているにもかかわらず、負け犬としてより生々しく見えてしまう。ウォルター・マッソーの、プール掃除人という優雅なうらぶれ方が、ソーントンでは害虫・害獣排除という職に変わり、鼠やらの死体を持ち歩く様を見ると、あるいは露骨な下ねたや選手の親と出来てしまうあたりを見ると、勝ち組へ、バブルへと向かうには、明らかに無理があるのです(もっとも、ウォルター・マッソーでも無理は無理で、2作目からはコーチ役を降りてしまうのですけれど。テイタム・オニールと共に)。

しかし、そうしたバブルには向かわない人々にこそ、アメリカ国旗のはためく下で、ノン・アルコールビールのビール掛けの祝福を与えよう、というリンクレイターの肯定がそこにはあります。911以後、強い兵士と野球がアメリカには必要だ、という勝ち組パラノイアの幸福などには興味が無い、いかにそこへの道を絶ってしまうか、というのが、歴史をやり直すリンクレイターの試みだったのかもしれません。

しかし、それはアメリカン・ドリームの詐術の露呈を意味し、テイタム・オニールウォルター・マッソーの間の掛け合い的な軽やかさが、ソーントンと、ヒロインの少女の間ではもはや成立しない、その痛々しさに代表される不快さと、向き合うことを意味しているのでした。