フリッツ・ラング「ハラキリ」/ CAN「Monster Movie」

BGM : CAN「Monster Movie」

Monster Movie

Monster Movie

CANは、単に刺激的であると言うだけではなくて、非常に私にとって影響力があるというか、ああ、これこれ、という奇妙な納得を引き起こすというか、ともあれ「必要としている音楽」といえそうなのです。ユーモアやら、批判性やら、抵抗する力やら、そうしたものを自分からなんとか作り出していこうとするときに、時折感じる枯渇を癒す、というか、むち打つ、というか(笑)、ともあれ、日常的に必要です。

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ドイツ時代のラングとムルナウで、F・W・ムルナウ作品で未見のものを楽しみにしていたにもかかわらず、体調を崩して伏せてしまったものですから、そうなるといじけた心持ちとなり、なんとなく足が遠のいてしまい、また、成瀬巳喜男の映画をまとめて見る欲求も強く、つい見なければならないフリッツ・ラングの未見の「スピオーネ」もパスしてしまったのでした。

DVDも発売されているようだし、という油断もあったのですが、なかなか店頭で手にはいらないことが上映後わかり、周辺の映画好きの言からも、見逃してはいけない作品であったことを確認し、こんな自堕落ではダメだ、と改めて思ったのでした。そんなわけで、先週末は「ニーベルンゲン」の第1部と第2部、および「ハラキリ」を見たのでした(ともにフリッツ・ラング監督作)。

すると、ごく自然なことなのですが、「ニーベルンゲン」などは圧倒されてしまうわけです。凄まじい。成瀬巳喜男の未見の作品を優先したので、別段後悔はしていないのですが「ドクトル・マブセ」もこの機会に見直したかったものです。ラングとかは、一種毒薬というか、麻薬というか、有無を言わさないものがあります。プッチーニ蝶々夫人を翻案した「ハラキリ」という(「蝶々婦人」の翻案でこのタイトルという時点でとんでもない)トンデモ映画ですら感動的です。

以下、「ハラキリ」「ニーベルンゲン」のネタばれです。

「蝶々婦人」は明治初期、アメリカ人将校の現地妻となり、一生添い遂げるためにキリスト教にまで改宗した元武家の娘(父親は切腹して果て、そのために没落したのです)の物語です。夫が帰国後、正式な結婚をするまでの一時しのぎの気持ちであるなど露も知らず、3年の歳月を待ち、帰国後に生まれた子供と共に生活苦を耐え忍ぶのですが、アメリカから帰った夫は妻帯で、子供を将来のために引き取るという。衝撃を味わった娘は、子供を引き渡すことを了承すると、「名誉をもって生きられなければ、名誉をもって死ぬ」という父の残した刀の銘に従い、自らの首を突いて死ぬのでした。

これを、全員ドイツ人俳優を使い、アメリカ軍将校もドイツ人将校に翻案し、セットで日本の風景を再現し、映像化したのが「ハラキリ」です。ここで、とても面白いのはプッチーニのオリジナルが、時代考証等がある程度出来ているにもかかわらず、フリッツ・ラングの手にかかると、大きく、しかもひどくゆがんでいくところです。

それは決して、単なる時代考証等のでたらめさの問題ではありません。たとえば映画の冒頭、「蝶々婦人」では普通の武士だった娘の父親が、映画では大名となり、天皇の命令で切腹して果てるというエピソードが加えられています。天皇がどうして大名に切腹を命じるのか、考えれば失笑ものではあります。しかし、ラングは恐らく、ハラキリが権力の命令で避けがたく実行されたこと、それを大名が最後の命として粛々と受け入れたことを描く必要があったのではないかと思うのです(とはいえ、実際に腹を裂くシーンは、さすがに省略されてしまうのですが)。

このことは、「蝶々婦人」ではキリスト教に改宗したはずの娘が、映画では仏教徒のままであることにもつながっていきます。尼僧になることを拒んだために父親はたたられ自害した、だから尼僧になるべし、という寺の住職の強引な説得を受け、娘が尼僧として望まぬ出家することになる映画オリジナルのエピソードがあります(住職は美しい娘を手に入れるという私欲のために、彼女を出家させたがっている)。つまり、娘も父を殺したような逆らいがたい権力にさらされているわけです。そして、そこでラングの映画が恐ろしくも魅力的なのは、確かにある程度は権力の醜悪さを描いてはいるものの(たとえば住職などは実に醜悪に描かれているし、娘を捨てた夫はどこまでも卑怯者として描かれる)、その批判をするよりも、あっけなくそうした権力の横暴を許し、当たり前のものとして存在させ、むしろその取り付く島も無い、強い圧力を受けることでいっそう鮮やかに死んでいく行為、<ハラキリ>の肯定に、映画が向かうように思えるところです。エキゾチシズム趣味で知られるラングにおいて<ハラキリ>は、美しく豊に花開く「日本」のイメージを、同時に恐怖へも開いていく一種の映画的な核(そこから可能性が開けていくポイント)としてあったのではないかと思います(もちろんここでいう「日本」は、ラングのイメージの日本であり、つまりかなりでたらめではあるのですが。なお、この「日本」を「インド」に置き換えると「インド 大いなる神秘」という映画になるわけです)。

ラングの映画を見ると、死の恐怖とイメージの豊かさが同時にそこから広がっていくような核が見出せるように思います。「メトロポリス」のロボット、「飾り窓の女」のショーウィンドウ、ラングを特徴付けるゆがみが「ハラキリ」の場合は、文字通り切腹にあったわけです。そこにあるのは、ただの刃ではなく、名誉のために死ぬ道具としての刃でなければなりません。ただ恐怖の道具ではない無理矢理な属性があるからこそ、その行為が、恐怖と同時に豊かさを強引に目指しうる核になるからです。実に、ラングらしい、という気がします。

豊かさと恐怖の両方へ開けていくものとしての映画。しかし、それ自体は、推し進めるほど、どんどんと極端な、不安定なものとなっていくのかもしれません。また、そこでは物語を支えるモラルの臨界が簡単に訪れて、物語が、あるいはそれにまとわりつく情緒が無意味になる(少なくとも重要ではなくなる)のかもしれません。というのも、「ハラキリ」のラスト、自害して果てた娘の死体を目の当たりにしても、ドイツ人青年はあまり悲しまず、後悔もせず、子供を妻と共に抱きしめるだけです。また「蝶々婦人」の最重要シーンの一つ、子供が自害しようとする母親を止めるシーンが、ここではありません。情緒は、まさしく切って捨てられています。刃、あるいはハラキリという核に、映画が集中していく中においては、おそらく後悔や涙ながらの引きとめは不要だったのではないかと思われます。もし、引き止めるのだとしても、それはもっと苛烈な対決でなければならないのでしょう。たとえば「ニーベルンゲン」の第2部、クリムヒルトが実の弟の懇願を跳ね除け、復讐のためにすべてを犠牲にするような、ああした強さでなければならなかったのです。としたら、娘の夫の中途半端な後悔や、抗いがたい子供の涙を絞る別れのシーンは不要だったのでしょう。むしろ、子供などは「ニーベルンゲン」でもそうであったように、あっけなく殺されてしまわなければならないのです。ただただむやみに強い憎しみ(同時に、愛)を生むために。

そうした「ハラキリ」の映画的な可能性を一歩はなれて、トンデモ映画としての面白さもちょっと触れておくと、たとえば、娘が尼僧になる準備期間を過ごした聖なる森で、禁を破り進入してきたドイツ軍将校の青年と恋に落ちてしまうシーンで、当たり前のように言葉が通じるのはかなり奇妙です(日本語だったのだろうか?そういえば「インド 大いなる神秘」でも言葉は自在に通じていた気がする)。娘とドイツ人青年の恋を知った住職は彼女を監禁するわ、彼女を使って金儲けしようとした僧の一人が、彼女を逃がすと偽って芸者として茶屋に売り飛ばすわ、寺はとんでも宗教団体として描かれています。ドイツ人青年が娘を救い出すのですが、その身請けするための条件がお金ではなく990日の間夫婦であることだったりするのもビックリですね。さらに細部をさらに見ていくと、吉原が長崎にあったり、祭壇(仏壇か神棚かは不明)への祈り方が、両手を万歳のように上げてひれ伏す(イスラム風?)だったり、草履は縁側の上に脱がれていたり…しかし日本の美術に、中国的なものが微妙に入り混じりつつ作られた奇妙な空間は、映像としてとても魅力的で、ヨーロッパにおける日本趣味的なものの良質な部分(コラージュとしての)を十分感じさせるのです。映画としては、これでいいのだ、とバカボンのパパ的にとりあえず言いたい。家屋内の空間の美しさだけでも、私としてはかなり満足のできるものでだったのでした。