成瀬巳喜男(9)/ AMM

BGM : AMM「It Had Been An Ordinary Enough Day In Pueblo, Colorado (AMM III)」

It Had Been an Ordinary Enough Day

It Had Been an Ordinary Enough Day

脳内を犯す、進入してくる音、ということで、AMMのこのアルバムです。

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女の中にいる他人」の冒頭で、小林桂樹は車が激しく往来する大通りの歩道を放心して歩いています。大通り、といっても決して人通りは少ない。後にわかる設定から、赤坂界隈であったようです。そのファーストショットの、小林を覆うノイジーな車の走行音。この映画は、音が印象的です。林光氏の卓越した音楽の力もあるかもしれません。タイトルテロップが出た瞬間に流れ出す、微妙なずれを孕んだ美しい旋律で、鋭敏になった耳が、この映画を音の映画として強く意識させたのかもしれません。

以下、ネタばれです。

外国の小説を翻案したサスペンス映画です。映画がはじまってすぐ、小林桂樹は親友・三橋達也の妻が赤坂のマンションで殺された事件に関与しているらしいことがわかります。小林は、新珠三千代と母、2人の子どもたちと暮らす、気弱な普通の男でした。小林が殺人犯なのか、もしそうだとしたら、どのようにしてそれが露呈するのか、というのが、映画の前半のサスペンスとなります。殺人事件があった、しかも夫の親友の妻だった、としても新珠としては、家庭の外のことです。三橋は、子どもが無く小林と新珠の子どもをとても可愛がっており、妻の死後もプレゼントのおもちゃを抱えて遊びに来もします。つまり小林の一家は、平和であり、その平和の描写とそこにおいて平静を装いながら耐えず奇妙な緊張を抱え続ける小林との対比が、サスペンスとなります。

遂にノイローゼ状態になった小林が、妻に、三橋の妻と愛人関係にあったことを告白します。雷の晩、停電した数分の間、蝋燭を持った妻の照らされた白々とした顔に向かって、小林は告白を始めるのですが、この映画は以後、小林がいかに告白をするか(したいか…良心において)ということが基軸に進みます。

気を静めるために旅行に出た小林が、一人が耐えきれずに妻を呼び寄せ、子を残した二人きりの旅行に、久しぶりに華やいだ雰囲気の新珠が、夫に幸福な笑みを浮かべながら、岩だらけの川辺を歩くシーンのあと、おそらくは自殺者の出た吊り橋へと通じる、高台に向かうトンネルの暗がりの前で、新珠は不安から「この先には何があるんですの?」と夫に聞くと、夫はそれには応えずに、彼が三橋の妻を殺したことを告白するのでした(結果、橋を越える、一種の死への傾斜を、いったんは止め、小林とともに引き返すことに新珠は成功します)。

殺人には、特別な愛憎はなかった。浮気でした。しかし遊びで始めた快楽を求める行為としての首締めが、行きすぎてしまった。旅館に戻って詳細な告白をする小林は、いくらか楽になったようです。新珠は、それを二人の秘密にすると約束し、夫に睡眠薬を飲ませようと、夫の鞄を探ると、中から劇薬が出てきます。小林は自殺する心づもりもあったのです。

この映画は、こうして小林が、次には三橋に、そして最後は警察に、告白してしまいたい、という良心の行為(といっても、それは混乱もしていて、どうしていいかわからないまま、どうにか良心と責任の決着をつけなければという焦燥に突き動かされているだけなのですが)を選ぼうとするのに対して、新珠が、子どもと夫、自分、義母という「家族」のために、夫を引き留めようとする、その一種の「対立」へとシフトしていきます。

新珠は、成瀬の映画における男女が良く見せる、ある種の距離感を小林に対して持ちません。調和の取れた、家庭の主婦として、すっと小林のそばに寄っていく。しかし、小林は、殺人という自身の行為において、自分自身がそこに相応しくない、異質なピースであるという感覚から、「家庭」という内部に異質な穴を開けてしまっているわけです。ですから、どれほど新珠が近づいていっても、殺人という取り消せない自体を抱え込んだ小林と、「家庭」の調和を回復は出来ない、むしろ接近し、告白させないために説得するほど、その対立は明確になっていくのです。

新珠は、どうにか夫が納得するように言葉を尽くそうとします。しかし、そこにロジックはありません。家族を守るために耐えろ、という真っ当なロジックを新珠は言いません。なぜなら、新珠は夫を、本当に救おうとし、その内面の問題に付き合おうとしているからです。成瀬の演出上、この映画の新珠は、小林と距離は置かない、すいと小林に寄り添う、つまり二人は、同じ場所で同じものを共有する資格を持っているかのようで、実際夫の秘密を共有するわけです。ただ、共有しながらもその対応と、目指す点が異なるという点で、決定的な亀裂も内包しているのです。そこで引き留めるために無理矢理繰り出される言葉。これに対し、小林は罪悪感を解消するために、結局三橋にも告白してしまいます。しかし、その三橋も、20年来の親友のために、また彼の子どもたちのために、小林によくわからずにやってしまったのだろうと告げ、どうすればいいかお前にいってもらいたいという小林に対して、自首しろとも何とも言わないのです*1

しかし、小林桂樹の側に、ではロジックはあったのか。ここで、最初の音の話となります。

もちろん、社会的責任を果たす、良心を全うする、そうした意味合いの言葉は、クライマックス、自首をすると決めた小林の脳裡にあったと思われるし、それはそれでひとつのロジックではあります。しかし、家族を守る、家庭を守るという意味での責任はどこにいったのか、また死んだ人間への呵責ならわかるのですが、小林は実は、してしまったことの重大さを語るにしても、死んでしまった親友の妻にたいする感慨はさほど無いのです。むしろ、情事の間ですら、妻や子を思っていたたまれなかったという小林は、殺害に至った瞬間を、越えてはいけない細い線を越えてしまったようだった、と告白します*2。逆を言えば、それは大きな感情のうねりがあっての殺人ではなく、思い入れの無い殺人でもありました。つい踏み越えてしまった向こう側、という小林の意識は、実は死んでしまった女性への軽視でもあります。

結局、映画の冒頭から最後まで、小林を突き動かすのは、一線を越えてしまったことの不安ではないかと思います。それが、冒頭の車の音からはじまる、不快な音の進入だとしたら(実際、その車の往来の音は、とても不気味なのです)、物語的にはある種の和解(もう疑わないと決める)のために三橋が小林宅に持ち込んだおもちゃの消防車が、うなりを上げ鐘を鳴らしながら走る音が、子どもがそれを気に入ったのか小林が家に帰ってきたときに家に満ちていたり、あるいは雷鳴(一度目の告白)、あるいはクライマックスの、子どもたちが喜びながら見ている花火の音(自主の決意)、それらは、新珠が小林に以下に寄り添い、端正な「家庭」を以下に上手く運営しようとしても、遮断できない外部(あるいは小林の内面)からの音だったのでした。三橋の家に上がり込み、小林が三橋に告白してしまうとき、窓向こうパーティをする若者たちの家から流れてくるゴーゴーの音楽も印象的です。彼らとは無縁の、意図しない音が、どんどんと進入してくる。

結局、それらの音を新珠は遮断できないのです。もし、それらが本当の意味で両親の声であったならその音には、実際意味などはない、ただ進入はしてくるのです。その不利な闘いの中で、新珠はどんどんと、恐ろしく変わっていきます。自首するという夫に「他人がしたことを、自分がしたように思いこんでしまうこともあると言うじゃない」という新珠の説得には、やはりなんのロジックもないわけですが、しかし、守るべきものを守るために、新珠自身が内面の他者を作り出し、夫を自殺に見せかけて毒殺するのです。それは、音が告白という意味を帯びた言葉となって、家の外へと響き出さないうちに、そっと押し殺した、とだけは言えないと思います。「表口から堂々と出ていこうとしている」小林を「裏口からそっと出してあげるしかない」と思う新珠は、しかしどちらにしても、夫を解放してあげたと言えるからです。結局、小林は、自首して救われたかどうかもわからないわけですから。そうしてすべての音を、止めてあげたわけです。いや、これはちょっとロマンチックですね、言い方が。実際の映画に見いだせるのは、もっと恐ろしいものです。

*1:この三橋の立ち位置はかなり奇妙です。美しい妻を殺されながら、彼は何故小林を許したのか。彼の妻が告白するように、彼女に対して三橋はあまり積極的ではなかったようです。対して、男たちの空間=バーにおける小林との密な関係性、重要な証拠を得ながらそれを警察にも隠し小林をかばうこと、かなり犯人の疑いが強まった時点で、敢えて小林宅に訪れること…等々から隠喩的なニュアンスを汲み取ることも可能です。

*2:2つの殺人の瞬間の、モノクロ反転と、普通に撮影したモノクロ映像を併せたような奇妙な映像のギミックが印象的です。