魔太郎がくる!! / 白い肌に狂う鞭

ある意味、「魔太郎がくる!!」は、裏ハリー・ポッターなのではないでしょうか。「いじめっ子=悪」を「許さない(コノウラミハラサデオクベキカ)」といって、「メガネのいじめられっ子」が、魔力で敵を倒していく。ほら、あらすじ同じだし(強引)。

強く影響を受けたコミックのひとつですね。復讐すること、そのための手段をもつこと、それを実行すること。ただし、その手段の特異さにおいて、復讐が欲望となっていくこと。復讐を欲望するのではなく、復讐が欲望となっていく。それも、1972年の連載開始当時の時代背景、80年代に向けて、ある種の凡庸さを準備しているような時代において、ああした、奇妙な軽さを帯びた(矮小ですらある)禍々しい欲望を、幾度も幾度も繰り返してみせること。そこから、欲望の矮小さと、その中で欲望する可能性(復讐の特異さにおいて)を見出すこと。いや、それは、可能性というにはとても貧しいものなのだけれど。その息苦しさも含めた時代性も魅力だったのかも知れません。

魔太郎がくる!! vol.1 (アイランドコミックスPRIMO)

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他方で、豊かな欲望のあり方、どこまでも欲望が、あでやかな豊かさとして花開いていくような映画も、心の健康のために見ます。マリオ・バーヴァの「白い肌に狂う鞭」は、心が癒される、まさにあでやかな映画です。しかし、その欲望は、あまりにも豊かさを目指されるあまり、過剰さを生み出す装置において、特異です。

旧家の跡を継ぐはずだった長男のクリストファー・リーは、非道を尽くし、召使いの孫娘を自殺に追い込んだ過去のため勘当され、老いた父親は、リーの弟に家督を継がせると決めており、弟と愛し合っている、同居している美しい従妹との仲を裂いて、リーの元婚約者であるダリア・ラヴィと弟の結婚も決まっていた。そこに、数年ぶりに帰宅するリー(馬に乗って、颯爽と。悪の微笑みを浮かべ、長身のみで不吉に立つ)。そして、被虐願望のあるラヴィが浜辺で一人いるところを、鞭で打って服従させ、ラヴィはそのショックで浜辺で失神し、一家の者の探索でやっと見つかる。一方で、リーに殺された娘のことで、祖母の召使いは深い怒りを胸に燃やしていた…。その晩…。

以下、致命的なネタばれです(黒沢清監督「回路」ネタばれも含みます)。

リーは、カーテンから響く謎女性の声に誘われ、召使いの娘が自らのどを突いた短剣で、やはりのどを刺され殺されてしまう。それから、ラヴィの元に、夜ごとあらわれるリーの亡霊。鞭を振るい、リーは、ラヴィは自分のものだ、と迫る。更に、老当主も同じナイフで殺されてしまう。犯人は誰なのか?亡霊の仕業なのか…。

最後まで見ると、ラヴィが精神錯乱を起こし、リーへの愛憎と、従妹と愛し合っているリーの弟への横恋慕(しかし婚約者は自分である)という歪みもあり、リーになったつもりで自作自演の被害者となり、殺人も起こしていた(実は最初の殺人:リーを殺したのもラヴィだった)とわかります。しかし、それだけでは説明がつかないこともあります(たとえば、柩に入っていた鞭で、ラヴィは叩かれていた、あるいは、リーの亡霊は自分の遺体が燃やされることを察知するのだが、それはラヴィが知らないはずのことだった)。では亡霊は、あらかじめいたのか。いや、やはり亡霊は、ラヴィの欲望、要請において存在したのではないか、とやはり思います。

ラヴィの矛盾し混乱した欲望の強さがなければ、この映画におけるリーは無意味な存在だからです。リーを憎みながらも、リーの鞭に感じてしまうラヴィの「強さ」(反応があるということ)。だからこそ、リーは亡霊と化してまでラヴィを求め続けるのだと思うのです(あるいは暴戻にしてまでも、ラヴィはリーを求め続ける)。

つまり、この映画では、幽霊が幽霊の都合で襲い来るのではなく、幽霊を、強く恐れながら、強く欲望する人の存在が、共犯的に豊穣な豊かさ(白い肌と鞭の双方が欲望しあうといった)を作り上げるのでした。

幽霊を欲望すること。そういえば本作を納めたDVD-BOXは、黒沢清監督のホラー映画のセレクションであるわけですが(他の2作はジャック・クレイトン監督の「回転」と、ジョルジョ・フェローニ監督の「生血を吸う女」)、黒沢清監督と幽霊、というと、もちろんいくつも作品が思い浮かびますけれど、特に「回路」について、ここでは想起されます。「回路」において、幽霊の身体に「触ろう」としたその欲望のことをです。思いっきり、幽霊の肩を叩こうとする加藤晴彦。それは欲望において、触れなければならない。直接、触覚において、欲望しあわないといけないのだと思うのでした。

回路 デラックス版 [DVD]

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