堂本剛の夜明けまでしんどい / 赤い影

「堂本剛の正直しんどい」は、数少ない、お気に入りのテレビ番組で、といっても、基本テレビはあまり見ないので、見逃すことも多々あるのですが、時々、深夜に、放映にあたると、得した気分になるのでした。

その特番が、今テレビで放映中です。「堂本剛の夜明けまでしんどい」(なお、この日記の日付は1/4ですが、実際は1/5深夜に書かれています)。アンガールズキングコング小池栄子中川家南海キャンディーズレイザーラモンHG若槻千夏らのゲストとともに、夜明けまで、生放送で何時間も、内輪のパーティ(のようなもの)をだらだら見せるだけの番組のようです。たとえばさっきは、視聴者への受けとか全く無視で、ゲストがずっとカラオケに興じているシーンが続いていました。ただ緩く緩く時間が過ぎていきます。

最近のTVのバラエティは、芸人が観客を笑わせるのではなく、芸人が勝手に遊んで、それを観客が笑うだけだ、という友人の言葉を思い出します。かなり的を射た意見ではないでしょうか。ただし、とは言ってもテレビである以上、視聴者を引きつけ、一定時間以上継続して見させなければいけないので、だらだらと遊ばせたりはせず、生放送のバラエティであっても、短いコーナーの区分けの中で、むしろ時間に追い立てられるようにしながら、番組を構成するのが常であるわけです。その刺激の連鎖は、そこにおける芸人が遊んでいるだけ、という一種の緩さに犯されず、笑いとしての鮮度を保つ方法論であるのだと思います。

堂本剛の正直しんどい」という番組には、バラエティ番組の一見自由に遊ぶ芸人たちを取り囲む枠組みの不自由さを嫌うようなところがもとからあり、枠組み自体をむしろ緩くすることで(たとえば堂本剛自身がカメラを回したり、ゲストとの会話が上手く運ばないことが前提とされた仕掛けがいくつかあったり)、他のバラエティとは異質の空気をかもし出しているのですけれど、「堂本剛の夜明けまでしんどい」は、深夜の、しかも正月番組=長時間生放送というフォーマットを得て、そのテレビの喧騒が内面にたたえる本質的な無意味さ、芸人たちが遊んでいるだけのだらしなさ、ただただ緩いだけの緩さに賭けているように思います。そうして、多くの番組の中でスピーディな展開に見え無くなっている、テレビのある本質的な緩さ自体にアクセスしようとしているのだ、というのは、いささか、物語化が過ぎているかな(笑)。とはいえ「堂本剛の夜明けまでしんどい」であっても、テレビである以上、一定のイベントは必要で、場所場所でゲームがあったり、コントがあったりするわけです。ただ、そうしたゲームやコントがあっても、それが番組の持続にはならない。それに対する、ゲストたちの緩い会話だけが、中心を持たず、ひたすら続きていくところに好感を持ちます。

ですから、この番組を楽しむためには、本質的にはテレビを直視しない、ということが求められているのかも知れません。むしろ、時折視線を投げるくらいでいい。そうして、見る価値のないもの、緩さ、それ自体を受け入れることで、テレビを楽しむこと。テレビという、本質的な緩さ(それに耐える「しんどさ」)と、ここで向き合うわけです。

そこで、この番組が、だらしない会話の中でもそれぞれ一瞬で鋭いトピックを作れる、しかし、一方で明石家さんまのように、その会話の運動神経で緩い場に無理矢理中心を作り出すほどの腕力もない、ゲスト布陣であることも効果的です。あまりの番組のぐたぐたぶりに、ややあせりのあるゲストたちに対して、これでいいのだとバカボンのパパ的泰然を決め込んでいる堂本剛の確信犯ぶりが良いと思います。そうした自覚は、私は評価に値すると思うのでした。

さて、ニコラス・ローグの「赤い影」を見ました。

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この不安に揺れ続ける、ヴェネチアを背景とした美しい映画は、ある恐ろしい現実と裏腹に存在しています。

以下、致命的なネタばれです。

それは、もっとも美しい、愛すべき存在(赤いレインコートを着た死んでしまった娘)と、恐ろしく醜い存在(赤いレインコートの殺人鬼の老婆)が、同じ、赤い影として、ドナルド・サザーランドの視界を横切っていくことなのです。

この映画の不安感は、視覚障害者ながら霊は見える、霊能者の婦人が、サザーランドとジュリー・デルピーの夫妻の間に、赤いレインコートの少女を見たことから、本質的にははじまります。そこでは、目に見えないものが、見える(つまり見えないものが存在する)という前提が与えられる。すると、見えていることそれ自体が、曖昧になり、あやふやになる。それを促進するのは、サザーランドの命が、ヴェネチアにいると危ないという、無き少女の予言です。ただし、それも聞こえない声に過ぎない。結局その声を聞いているのは、霊能力者の婦人だけなのです。

このように、私たちには、見えも聞こえもしないものがある、という前提が、この映画の風景に、絶えず危うさを流し込んでいき、だから、時折画面の橋を走る赤い影に、ようやく潜在的に存在したものが顕在化した兆しを感じるのでした。

しかし、それは実は単なる誤解(トリック)で、実際には、その赤いレインコートは、愛しい娘の亡霊の顕在化ではなく、不気味な殺人鬼の影に過ぎなかったわけです。それは現実にただあった。それを、見えないものが存在する、という前提が、見えることもあるかも知れない、という仮定となり(実際霊能者は見える)、そして見えてしまったものを、見たとおりではない解釈で、捉えることになるのです。

それは、映画の原理(映画の錯乱)への、言及のひとつだと思います。ただ、それを、これほど不気味に、一種の傷として示すところに、ローグの映画があるのかもしれません。実は、ローグはこの作品と、「WALKABOUT 美しき冒険旅行」しか見ていないので、あまり言ってはいけないのですが。

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