ストリート・オブ・ノーリターン
正月に家族で愛の映画を見ようと思って、サミュエル・フラーの「ストリート・オブ・ノーリターン」を見たのでした。ゴダールの「アワーミュージック」を見て、見たくなった、というのもあります(映画の終わり、「天国」と題された一連のショットのなかで、朽木に座った男が、「ストリート・オブ・ノーリターン」の原作本を読んでいるのです)。
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私はこの映画を、ゴダールとの連想の中で、フラーの「天路歴程」として見たのでした。
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といっても、実はジョン・バニヤンの「天路歴程」という本自体は読んでいないのです。私が読んだのは「若草物語」、4姉妹の巡礼ごっこなのでした。天の都を目指して、人生の重荷を背負いながら歩む、という物語を、美しい4姉妹が興じること。…そういえば、ジョージ・キューカーの「若草物語」も、私は見逃したままです。
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とはいえ、キャサリン・ヘプバーンが演じるジョーを勝手に頭に思い浮かべ、ゴダールの「アワーミュージック」におけるオルガのイメージを隣に並べ、「ストリート〜」におけるキース・キャラダイン演じるマイケルと、通じ合わせながらながら、愛に生きること、人生の重荷に耐えること、といったことを思うのです。そこでイメージされる「天国」は、あるいは「天国」に向かうための「重荷」は、もちろん清教徒が正しくイメージするものとはだいぶ異なるのだと思いますが。
そもそもフラーにとって、無謀な地を進むことが映画であるわけです。問題は、その確信を、どこまで映画にしていく覚悟があるか、です。その結果が、狂気であるとしても、その場所を突き進むこと(「ショック集団」)。あるいはスキンヘッドをスクリーンにさらす狂った目をした女の突進であること(「裸のキッス」)。
以下、ネタばれです。
「ストリート〜」の世界は、暴力と荒廃のスラムを、白髪の浮浪者キース・キャラダインが、アル中となってさまようところから始まります。彼の天路歴程は、言ってしまえば、人も殺せないような男が、愛のために人を殺せるようになる(そして愛を取り戻す)までの、凶暴なファンタジーとしてあります。大人気の歌手だったキャラダインが、アル中浮浪者まで落ちぶれたのは、一人の女を愛したため。彼はどん底、「若草物語」で言えば階段の下まで、転がり落ちる。しかし、だからこそ、彼は登っていくことができるわけです。高みに。その純粋な運動の過程で、死体が彼の周りに転がっていくのです。敵は、ある意味矮小な存在=人間でありながら、同時に奇妙な純粋な悪としての魅力を備えてもいます。それは悪も、欲望に純粋に忠実な存在だからでしょう。
どれほど敵に攻撃されても、銃を手にすることのなかった男が、いつ殺されてもおかしくないような世界を無謀に進みながら、最後に銃を手にする。そして、撃つ。重荷を階段から転がり落とし、軽やかになる。そんな風に映画ができていく。そして、「天国」が現れる。フラーの映画だなぁ、と思うのでした。
フラーの映画は、どれほどの戦場にあっても、軽やかです。