ダンディー少佐 / ワイルドバンチ / 駅伝

駅伝というのは、倒錯的な悦びを与える仕組みであるように思うのですよね。

まず、巧みに、個々のスピード・能力の問題は焦点化されないようになっている。結局は、チームの勝敗が重要であり、個別の区間における結果は、それほど重視されない。それは当然で、第1走者以外は、同時にスタートしていないわけですから、個々の区間のゴールにおける順位は、その個人の走りだけの問題にはならない、チームの問題に絶えずなるからです。すると、個人というものが、全体のチームの歯車となるわけですが、たとえばサッカーのような、複数の人間が多数の機能を分担するようなスポーツとも言いがたい。走る速さの早い人々が、チームと、それを象徴するたすきのために、同一の行為をただひたすら繰り返すわけです。なるほど、ひとつのチームに、さまざまな力を持った人間がいるわけですから、通常のマラソンよりも、ぬきつぬかれつが起こりやすい、とはいえそうです。レースを楽しむ、という意味では、マラソンよりも面白いのかもしれない。ただ、マラソンの肉体の限界への挑戦をみる、という時間であるのに対して、駅伝を見る、とは、いわば没個性的な仕組み(実際には、個々の走りは没個性ではないので、これは仕組み上、個々の限界への挑戦が見えづらくなる、という意味なのですが)を見ているのではないか。そこに私はどうも微妙なものを感じてしまいます。

いや、これはバイアスのかかった意見です。基本的に、皆でたすきをつないで、同じ行為を繰り返して、ひとつの仕事をなす、といった単純さを信じられないというか。ただ、倒錯的、というのは、ちょっと別の問題なのです。なんというか、実際に駅伝に期待されているのは、脱水症状でふらふらになって倒れそうになり、足を引っ張ってしまいながらも懸命にゴールする選手の出現(つまり、ドラマ)なのではないか、ということなのです。マラソンでも、もちろんそうしたドラマはありますが、しかしそれでも、勝者以上の脚光を浴びはしないでしょう。それは、端的に言えば敗者だからです。しかし、駅伝には、そうした明確な個人の敗者はいないのかもしれません。ぼろぼろでもたすきを繋げることができたなら、むしろぼろぼろであればあるほど、勝者以上に「勝者」になるのではないか。私は、それはスポーツとして、どこか転倒しているように感じているわけです。

という記事は3日の12:50、箱根駅伝の第10区をテレビで流しっぱなしにしながら書いています。

正月から見る映画は何だろう、ということで、親子そろってサム・ペキンパーの「ワイルドバンチ」と「ダンディー少佐」を見たのでした。もちろんDVDです。「ワイルドバンチ」はスクリーンで、ビデオで、何度も見直してきましたから、これで何度目かわからないのですが、「ダンディー少佐」はこれが初見でした。

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南北戦争のさなか、北軍の将校ながら、虐殺を繰り返すアパッチ征伐のため、南軍の捕虜まで編成した混成軍を作り、勝手に戦争を始めるダンディー少佐(チャールトン・ヘストン)は、ある意味戦争パラノイアだ、といえるでしょう。彼は、北軍内で問題を起こし、最前線からはずされて、南軍捕虜を収容する砦の責任者となっているわけです。部下からは、今度勝手な戦闘を起こしたら、更迭されると部下からも指摘されます。しかし、目の前にアパッチの蛮行がある。連れ去られた子供たちもいる。彼は、喜んで、戦闘へとまい進する。

以下、ネタばれです。

しかし第一の目的だったはずの子供の救助は、敵アパッチ内の裏切りから、早々に戻ってくるのですが、ダンディー少佐は軍を止めようとはしません。南軍捕虜との不和を残しながら、不正規軍としてメキシコまで進軍し、アパッチと対決するだけではなく、補給のために立ち寄った村落をフランス軍から開放することでフランス軍の大軍とも対立することとなります。ダンディーと対照的な存在として、ダンディーの陸軍における旧友であり、いまは南軍捕虜であるタイリーン(リチャード・ハリス)が登場します。国のため、といいながら、戦争パラノイアであるダンディーに対して、タイリーンは人間的なバランスも帯びているように見えます。しかし、ペキンパーの映画だからでしょうか、メキシコの村で知り合った美しいドイツ人女医テレサ(センタ・バーガー)は、ダンディーに惹かれていきます。彼女いわく、それは彼が生きている実感を与えるから、なのだそうです。

しかし、おそらダンディーにとって、生きている実感は戦場にしかなかったのではないか、というのが、この映画の殺伐の豊かさになっているとも思います。しかも、それは北軍に、泥棒や復讐に燃える牧師や、南軍捕虜といった混成のチームの、でたらめな、いつ崩壊してもおかしくない状況における、無謀なる挑戦でなければならない。なぜなら、全うな理由が付与された戦闘ならば、その理由が戦いの目的になってしまうからです。戦い、そしてその周りに量産される死が、生とリンクするためには、その前提として、破滅的な抵抗、無謀なる突撃がないといけないのです。

その異様な反骨精神においてペキンパーは、ペキンパーであるわけですが、「ダンディー少佐」で非常に面白いのは、テレサと戦闘の合間で一時の安寧を得たダンディーが、しかし敵の急襲を受け、アパッチの弓で足を負傷してしまったあと、その深手がなかなか癒えず、村の医師の下で飲んだくれてしまい、戦場を放棄しそうになることです。いわば、指揮官自らが脱走兵になりかけてしまう。このでたらめな弱さ、ナイーブさもペキンパーである、ということだと思います。

死を覚悟した苛烈なるアウトローたちの抵抗という意味では、「ワイルドバンチ」がやはりその最高峰だとは思いますが、同時にそこにある破滅/終わりへのナイーブさも、見ておかなければいけないのだと思います。それはただアクションにおいてだけ過剰なのではない。アメリカの映画史の問題なども踏まえつつ、やはりとても繊細な痛みがある。たとえば、どう考えても死ぬに決まっている状況下で、なぜアーネスト・ボーグナインは、ウィリアム・ホールデンに死ぬな、と叫び掛けるのか。死にに行くことと死ぬな叫ぶことが、同じであることのナイーブさ。それは、同じくペキンパーの「ケイブル・ホーグのバラード(砂漠の流れ者)」にも通じていくことであるでしょう。