冨永昌敬「シャーリー・テンプル・ジャポンpartⅡ」/ 廿日鼠と人間 / Jon Rose

BGM : Jon Rose「Perks」

Perks

Perks

ラケットに仕込まれたMIDIセンサーによってバトミントンの試合とインタラクティブシンセサイザーを鳴らす“バトミントン・ピース”と、オーストラリアの先駆的な作曲家パーシー・グレンジャーの曲をジョン・ローズ流に引用/再構築したシークエンスを組み合わせた作品、とCDを買ったときに着いてきたお店の方の書いた解説にありました。パーシー・グレンジャーという作曲家自体を知らない私は、このCDの大いなるユーモアの半分も楽しめていないのかもしれません。こうした解体的なユーモアが、歴史を無効にするためにあるのではなく、むしろ歴史を解体の中で浮かび上がらせる可能性も感じますし。しかし、例によってジョン・ローズは、CDのブックレットにパーシー・グレンジャーの偽書簡をねつ造して掲載していたりもするのですけれど。

にしても、このアルバムは楽しいです。ときどき取り出して聴きたくなるCDのひとつですね。

 ※

昔、スタインベックの「廿日鼠と人間」を読んで感動し、その勢いでロバート・バーンズの詩の抜粋(翻訳ね)をついでに覚えてしまったものでした。

廿日鼠と人間 [DVD]

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二十日鼠と人間 (新潮文庫 ス 4-1)

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「To a Mouse」というタイトルで、原文と翻訳がそれぞれこんな感じでした。

The best laid schemes o' mice an' men
Gang aft agley,
An' lea'e us nought but grief an' pain
For promis'd joy.

鼠と人間の 最善を尽くした計画も
あとから次第に狂っていき
約束された喜びのかわりに
嘆きと苦しみのほかには何者も私たちに残さない。

ロバート・バーンズ( Robert Burns )

スタインベックの小説では、廿日鼠は純粋な心を持っているが知能にかける大男をまずは表していて、彼を庇護し彼を愛する機転の聞く小男が、おそらくは人間で、二人は互いに支えあうように生きてきて、働いて稼いだ金で農場を開こうと計画しているのですけれど、その計画が悲劇的な結末に向かっていくという話でした。

しかし同時に、愚かしくも計画をだめにしていく人間と鼠たちとは、登場人物すべてをさしているともいえて、つまり人間全体の愚かしさということになるのだと思います(MiceもMenも複数形ですしね)。また英語で“Mouse and Man”は「生きとし生けるもの」という意味だそうで、ネズミたちと人間が相談しているどこか牧歌的なイメージは、生きとし生けるもの、つまり世界全体のイメージにもつながっているということでしょう。

また、これは半ば誤読ですが、スタインベックの小説の引力に引きずられながら、鼠を愚かしさと純粋さが入り混じった人の心として、人間を理性や知恵として考え、内面の問題に置き換えながら、この詩を読むことも出来るのではないかと思います。あるいは、詩を読みそれが内面化された結果、この詩の構図が内面の問題になる、とも言えるかもしれません*1

昔、スタインベックの小説を読んで、この詩の一節を見たときには、こんな風に純粋にまじめに捉えていたわけですけれど、考えてみると、鼠の動物性にはもっと可能性があって、もっとばかばかしいイメージ、たとえば、鼠と人間が本気で会話してしまう、道化的なイメージに、もっとスポットを当ててこの詩を読むこともできるのではないか、と思い当たりました。“The best laid schemes of mice and men”は、慣用句だそうで、「全員で慎重に検討した計画」という意味だそうですが、うまくいかなかったときに使う表現、“The best laid plans of mice and men”となるとそれ自体が「計画通りにはいかないもの」という慣用句になるのだそうです(これはロバート・バーンズの詩から生まれた慣用句なのでしょうか?)。まじめな読み方でいくと、計画自体は結構まともだったのだけど、結局はダメになってしまった、と捉えるのでしょうが、そもそも鼠と人間が立てた計画です、もしかしたらそれ自体が最初からでたらめで、ダメダメで、慎重に当人たちは計画しているつもりでも、実は計画しているそばから破綻していたのではないか。だとしたら、この詩はナンセンス喜劇にもなっていきそうです。そして、それがイメージされたとたんに、面白いのは、ある意味「まじめな捉え方」は、それはそれでちゃんと有効(というか自然)でありながら、同時に、それを解体し、笑ってしまう力が同時に働くことです。そこにはユニークな可能性があるように感じます。

などということを考えたのは、かなり長い前置きですけれど、冨永昌敬の新作「シャーリー・テンプル・ジャポンpartⅡ」を見てきたからです。これは、大変面白い作品ですので、機会があればぜひ見てほしいと思います(東京の上映は終わってしまいましたが)。

正確にはPartⅠとPartⅡを続けてみた、というべきなのでしょうか。同じ脚本を使ってまったく別の演出を施すという試みで30分前後の2本の短編が組み合わさって出来た作品です。2作の反復によっていっそう刺激的な作品となっていることを考えると、これは一つの作品としてみるほうが自然かもしれません。しかし、同時に、監督自身も言及するようにPartⅢがありえて、さらに続くこともありうるなら、永遠に未完です。どこか鼠っぽい話です。増殖というキーワードだけで強引に言ってます。

以下、ネタばれです。

さて、この2つの映画の場合、愚かしく純粋で動物的、つまり鼠なのは、ある町長選で身代わり投票のバイトのために田舎町につれてこられた、3人の若者です。彼らは、あまりの愚かしさで、計画自体の穴だらけな愚かしさを、その穴が露呈する前に内側から完全にぼろぼろにしていくのです。彼らを雇う町長候補の娘とその婿が、だとしたら人間なのですけれど、そこにどのような利権があるのであれ、1票20万でつれてくるには、あまりにおろかな若者たちであり、そんな見る眼のなさ、鼠の彼らに相談する時点で、やはり愚かしさは隠せない二人は、更にもう一人つれてきた夫の愛人(妻には内緒)が、実は対立候補のスパイであることなど思いもよらなかったのでした。

映画の上映後に開催された冨永監督と宮沢章夫氏の対談の中で宮沢章夫氏は、3人の若者たちをさして、名前のない、身代わり投票を職業とする不可思議な浮遊した存在として面白い、という話していました。監督の発言を聞くと、どうやら若者3人のバックボーンは特別設定していなかったようなのですが、私としては、3人の若者は、普段はフリーターや大学生をして、別段取り立てて浮遊した存在ではなく、むしろ愚かしさによって、リスクやモラルなどは考慮せず、不意に日常の外の奇妙な隙間に入り込んだだけなのではないか、と感じました。というのも、職業というのはあまりに自堕落な喧騒を彼らが撒き散らかすからで、つまりあまりにいい加減なのです。

では、彼らの行動の原理は何かというと、女だったり、食欲だったり、暇つぶし(なんせ、身代わりが外を出歩いても困るので彼らは暇で仕方がない)だったりします。それしかない、というところに凶暴な鼠っぽさがあります。元から愚かだった計画は、彼らのその単純さの前で、なんの成果も生まないままどんどんぼろぼろになっていくのでした。

そうした解体に向かっていく脚本を、PartⅠでは、口ぱくサイレント字幕つき、という奇妙な手法で映像化します。しかも途中数カットだけ、短くインサートされるカットがあるものの、基本的には引きの画の固定カメラによる長回しでほぼ出来ている映画です。対してPartⅡは、撮影自体はカットを積み重ねる通常の手法ですが、なぜかナレーションがフランス語で、それが異常にシュールな感触を与える作品です。

PartⅠの始まり方は、特に印象深いです。カメラはその田舎らしい大きな繋がった二棟の家屋の裏手、やや小高いがけ上のようなところから、中庭と思しき空間を見下ろすようにすえられています。中庭には、青いパイプいすが3脚、お堂のような空間があると思しき家屋に向かって並べられているのですが、フィックスのカメラからは、家屋の中が見えず、判然とはしません。家屋の向こうには道があり、その手前に真っ赤なスポーツカーが停車されています。あとは緑が広がっています。田舎です。鳥の鳴き声や木々のさわめきが聴こえます。遠くからは、少年野球チームの大会か何かの音も聞こえてきます。

数分間、無人の空間がフィックスのまま映されます。構図の巧みさや、自然音の取り込み方など、ストローブ=ユイレをおそらく意識しているのですけれど、しかし、同時に異常に饒舌なカットでもあります。車は、いずれ人が乗り込む、または降りてくるのを待っていますし、映画を最後まで見るとその期待はかなえられないのですが、パイプいすも座られるのを待っています。左手の家屋は、人物がそこから送り出すタイミングを計っています。ただ、それらすべては何かを準備しながらも、どこにも結びつく気配も無いまま宙ぶらりんであり続けるのです。その数分を、何も起こらない饒舌さの予感にあるとしたら、いざ建物から人が現れ、始まる一連の物語は、口ぱくに字幕が付くという奇妙なサイレントの作品なのですが、何も聴こえない饒舌さに彩られているといえます。

ここでは、演出手法的な解体が、複数の意味で見いだせます。自然音は響いているのに、声だけは聞こえない不可思議な事態、日本語でしゃべっている人々の会話は、字幕で現されてしまう…実験映画的といえばそうですけれど、さらにストローブ=ユイレのパロディでもあろうとしています。つまり尋常ではない目配せの元に成り立っている映像的ジョークといえるのです。そうしたポジショニングにおいて非常に困難な隙間を、あえて突き進む姿勢が見て取れます。

PartⅡならば、やはりフランス語のナレーションですね。ある意味でたらめな展開をし、動物的な登場人物が喧噪を引き起こし続け、結局は何事も起こらずに計画半ばで頓挫していく人々を描いたこの映画で、素晴らしく「いい声」で登場人物の内面の声を代弁するナレーションは、梅本洋一氏によるフランス語で、登場人物の若者たち誰に接近するのも拒絶しながら、どこにも帰属せず浮遊しています。スピルバーグの「A.I.」において、オスメント少年演じるロボットが人類全滅後宇宙人に発見される下りで流れるナレーションを思い出します。人類滅亡後の語りは、誰のものなのか。あえて言えば、それは映画それ自体の声であるのかもしれません。「シャーリー…」でいえば、鼠たちの喧噪の中で、流れる映画の声、という感じでしょうか。しかもやはり相当に饒舌なナレーションです。語りすぎて、意味も不明瞭になっていく饒舌さの中で、露呈しているのは、解体に向かって進む映画の意志かもしれません。やはり、そう考えると、「A.I.」をふと思い出したのは、かなり的を射た連想かもしれませんね。

A.I. [DVD]

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基本的には、共通の脚本ですが、細部での相違があり、たとえばPartⅠでは梨を取りに行って3人組の一人が足を滑らせ木から落ちるというエピソードがあるのですが、PartⅡではなぜか、木から落ちたのは同じなのに、拾ってくるのはステレオのスピーカーになっています。これは監督曰く、梨がⅡの撮影時に売って無く、夏みかんにしたのだけど腐ってしまっていたので、たまたま撮影現場にあったあったスピーカーにしたとのことで、行き当たりばったりといえばそうなのですが、食べ物=個々に食すものから、スピーカー=その場にいる全員が音を聞く道具に「広いもの」が変わった結果、PartⅠでは若者3人とまったく交流を持たなかったスパイ女が、PartⅡでは一瞬でも親しげに振る舞う(スピーカーを修理して、アダルト映像の音声を流すという無駄な試みに興じ、成功して皆で「うける」)シーンを可能にしています。

同一の脚本(あるいは詩)が、複数の異なるイメージを生む、まあ、それは当然ありだとして、その別々のイメージを重ね合わせたときのずれが、そのずれ自体によって有機的に新たな可能性を生み出してしまう、という事態が、ここでは起きているのだと思います。そうした試みは、やはり構築的なものではなくて解体的なものなのだろうと思います。そうした試みの場では、スタティックな視点は簡単に廃されていくからです。

すでに終わってしまった映画殺し(解体)の、無数の夢想的計画書。すでに(古典的な映画のアクチュアリティなど)死んでしまっているわけですから、殺すこと自体が不可能な中で、なお夢想される無数の荒唐無稽な計画。そして、それを続けるための饒舌ないいわけ。そんなふうに富永昌敬監督の仕事を見ることは出来そうな気がしますし、そうすると決して彼の作品が、特別に特異なものではないのだと思えてきます。それは、必然的に、今ここにある。そこで改めて、冨永監督の映画にあるリアルさもちゃんと指摘するべきでしょう。PartⅠの、若者の一人のだらしないパンツ姿。あるいは選挙というモチーフの的確さ。上映終了直後に衆議院選挙まで引き寄せてしまうその力強さまで含めて、現在のリアルが確かにあるのです。ですから解体は、虚無的な行為ではなくて、むしろ今、絶えず、進行させなければならないという戦いとして、いや勇ましいものではないにしても、あるのかもしれません。

PartⅠで、町長候補の娘の車を奪って逃げた若者は、PartⅡでは、同じ真っ赤なスポーツカーに窓から飛び乗りながら、反対の窓から飛び出て、まっすぐ森に走っていき、そしてまた戻ってくるのでした。解体の方法は、そんな風におそらく複数あるのだと思います。その複数のプランを、適切な目配せによって正しく隙間を目指しながら、実行していくこと。この場所(ブログ)も、そうした運動の一部になれればいいのですけれど。はてさて。

*1:この詩を読むときに、mice and menとusを切り分ける読み方をすると、とても諧謔的な詩にも読めるでしょう。たとえば、小泉純一郎郵政民営化騒動を見て、誰が鼠で誰が人間かは脇においても、「嘆きと苦しみのほかには何者も私たちに残さない」と暗い気持ちになる、そんな読み方です。しかし、これって、投票行動っていう「私たち」の部分を切り離しているからそういえるのであって、私としてはそんな風に、自分が存在する世界の生きとし生けるものの問題を、私たちだけは枠の外から見て諧謔にするためには、よほどうまく、知的にすばやく切り抜けて見せないと、むしろ自分の愚かしさ、自分もまたそのおろかな計画に加わっていることだけを露呈してしまうと思っています。