成瀬巳喜男(5)/ Frank Zappa

BGM : Frank Zappa & The Mothers of Invention「Absolutely Free」

Absolutely Free

Absolutely Free

凶暴だが、立派に大人でもあり、そしてワイルドなのに軽やかなユーモアでもある。月並みですけどね。憧れます、素直に。こういう大人になりたかった。

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成瀬巳喜男の川や海は、やはり恐ろしいと思うのです。「まごころ」について書いた日記の中では、そこで流れる川がどれほど恐ろしいか、という話を書きましたが、今日はそれに加え「海」というキーワードにもクローズアップしたいと思います。というのも、今回の成瀬巳喜男特集上映のなかで、サイレント時代の作品をまとめて何本か見たのですが、成瀬はその最初期から、海や川を特殊な場として描いていることを改めて確認できたからです。

(成瀬については9/19/39/49/6の日記でも書いています。)

以下、「生さぬ仲」「夜ごとの夢」「君と別れて」「旅役者」「秋立ちぬ」のネタばれあり。

まず、海を越えてやってくるもの、というモチーフが見出せます。「生さぬ仲」ではアメリカで女優として大成したあと、6年前に捨てた子を取り戻すために海を越えて船でやってきた生みの母が、育ての母から強引に暴力的に子供を連れ去るのを見ることが出来ます。大海原を越える力を持つものは、成瀬の映画では大きな力を発揮する存在かもしれません。「夜ごとの夢」では、女給をするヒロインに暴力的に迫る海の男が登場します。彼らは、相手のことなど考慮せず、強引に自分の願望を叶えようとします。あるいは「浮雲」において、海の向こうでの出来事がどれほど森雅之高峰秀子に決定的であったかを思い出してもいいかもしれません。

対して、海は、弱い人間を飲み込んでも行きます。「夜ごとの夢」では、映画の最後にだめ男の典型のような女給の夫は、海に身を投げて死んでいきます。「君と別れて」は、成瀬巳喜男がはじめて脚本を担当した大傑作メロドラマですが、その中でヒロインの芸者・照菊(水久保澄子)は、慕っている姉さん芸者の子で、兄弟のように仲良くしてきた義男とともに海辺の実家に戻った際、妹を芸者にすると言い出した働きもせず酒を飲んでいる父親に反抗し、親を恨んでいるのかと問われ、そうだと答えます。妹の分まで稼ぐという彼女は、妹を芸者にしたくない一心で、より身を落とす決心をしています。義男と二人で海辺に来た彼女は唐突に、どこか遠くへ行ってしまいたい、義男ちゃんも一緒に行ってくれる?と問うのでした。その字幕だけは海にかぶせられています。そこで、海は死のメタファーなわけです。「浮雲」でもそうであったように、ですね。

しかし、死と海というだけでは、別段成瀬に特権的なことでないのは明白で、むしろよくあるメタファーだと思うのですけれど、成瀬を成瀬としていくのは、その海の視覚的な不気味さです。「秋立ちぬ」の少年と少女がたどり着いた晴海の海は、埋め立て地の何とも貧しい海で、堤防越しに申し訳程度に移った海を見た少年と少女は、にごった海を見て青くないねと語り合うのでした。「夜ごとの夢」のラストシーンの海、女給の夫が沈んだ埠頭の海には、汚い油が浮かんでいました。海を美しく撮ろうとする映画作家は数多くいます。しかし、海を汚し、その汚れの前にたじろかせる、そうした海を成瀬は描いている気がします。

川、または橋が、成瀬において重要な機能を果たすことは、以前の日記で書いた「まごころ」や「秀子の車掌さん」でも確認できるのですが、「秋立ちぬ」を思い出してもそうで、銀座の八百屋に住まう少年と、宿屋の少女のあいだに走っていた銀座の川は、橋によって夏休みという短い期間だけ近づいた少年と少女の関係を、しかし決定的に隔てても居るのでした。映画のラストには、少年はくじいた足を引きずりながら橋を越えて少女に会いに行きます。しかし、すでに少女の家はもぬけの殻になってしまっているのでした。あるいは少年が、乙羽信子の母親に捨てられたあと、母親が、息子に届けもせずに、住み込んでいた宿屋の押入れに残しておいた野球グローブを、宿屋の仲居の一人に手渡された、その帰りに橋の上から川面をじっと見つめるシーンも印象的でした。

印象的でした、といいながら、このシーンで、川もが映されていたか記憶が定かではないのですが、移っていたとしたら、それは特別美しくはない川だったはずです。「君と別れて」では、橋のたもとから水辺を見下ろすと、ゴミが浮かぶ汚い川面が見えるというショットがあります。いくらでも美しく描けるだろう川や橋といったフォトジェニックな素材を、現実的な汚れの中に置く。そして、そんな川や海に取り囲まれた世界がある。成瀬的な残酷な世界の、明確な症状をそこに見出せるかもしれません*1

とはいえ、成瀬巳喜男の川が、すべて現実的な汚さを帯びているということはもちろんなく、むしろ、きらめくばかりの美しさこそが、死と通じていることもあります。「まごころ」はまさしくその例ですが、馬の足役に誇りと信念を持っている役者が、実物の馬に役を奪われてしまうのを描いたコメディ「旅役者」でも、川はある死の契機として描かれます。夏の盛りです。暑さで、水を浴びに行くのは自然なことではあるのですが、藤原釜足(当時は藤原鷄太)演じる馬の足役の俳優が、後ろ足の後輩と川に水浴びに行くと、まず馬の顔を劇団の後援者の一人である床屋に潰され、翌日の出演を断らせる原因となり、役を干されて次に水を浴びにいくと、今度は代役の実物の馬が大好評だから、もう馬役は要らない、馬の世話をしてくれ、といわれてしまうのです。節目節目に現れるのは実に長閑な川です。しかし、一見のどかに見える風景の中に、死は潜んでいる、という意味では、川の長閑さとその映画としての機能の離反は、やはり成瀬的と言えそうです。結局は、この世界は、明確に死やおわりの匂いを漂わせていようがいまいが(つまり川や海が、明確な残酷さを刻もう画の語かさの中にあろうが)、それらが成瀬の世界を取り囲むことには、そしてそれが死や終わりとして機能することには、変わりないのでした。徹底的である。その徹底振りにおいて、成瀬の川や海は、やはり恐ろしいのです。

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成瀬巳喜男の「君と別れて」の美しさは尋常ではないと思うのですが、それは照菊を演じた水久保澄子の美しさにやられてしまったのかもしれません。つぶらな瞳、けなげな決意、大好きな義男の替わりに刺された彼女が、病院のベッドで、布団の上に顔だけ出して横たわる姿のか弱さと強さ、見舞いに来た義男が不良少年をやめるといってくれたのを聞いて、「もう安心してどこにでもいけるわ」とつぶやく彼女は、妹のために芸者からさらに身を落とす決意をしているのですけれど、言葉をついで「このまま死んでいけたら幸せなのに」というときには、もう映画を見ていて胸が詰まってしまい、それでも負けずに生きていくという決意を漏らすときには、ほろりほろりと泣いてしまうのでした。汽車に乗り去っていく彼女に、見送りに来た義男はありえそうな言葉「迎えにいく」というひとことを漏らさないのは、おそらく彼女が行く先は、単なる住み替えではなく、誰かの妾になるか、ともかく恐らくは不可逆的な変化へと向かっていくからだと思います。だから、「義男さんのことをいっとう好きだったってこと」を忘れないでほしいという照菊の言葉は過去形なのです((ところで、この映画は、そのあまりの美しさによって水久保澄子という女優を呪ってしまったのかもしれません。水久保澄子は、「君と別れて」の照菊が芸者の稼ぎで家族を支えていたように、彼女の女優としての稼ぎで家族を支えていたのですが、やはり映画同様に彼女に依存して働かない親の金銭欲のために松竹と衝突、追放されてしまい、日活に移籍するのですが、金持ちを自称するフィリピン人青年にだまされ「海を渡って」しまうと、実は貧しかった男と生んだ赤ん坊を捨て、結局は行方不明になってしまうのでした。当時国際結婚に否定的な風潮が強い上に撮影をドタキャンして海外に嫁いだ彼女への風当たりは強く、日本にも戻れなかったのでしょう。「どこか遠くに行ってしまいたい」と海=死を前につぶやいた彼女は、海を越えて生きる強さを到底持てず、どこかへと消え去ってしまったのでした。

というのは、いささか映画を愛する立場からの妄言かもしれませんけれど。それにしても美しかったのです、水久保澄子は。「君と別れて」のあとの出演作は、小津安二郎の「非常線の女」。田中絹代との共演でした。「非常線の女」も見ているのですが、記憶が定かではありません。だいぶ前に見たものですから。ちょっと見直さないといけません。

※「非常線の女」は小津安二郎BOX第四集に収録されています。

小津安二郎 DVD-BOX 第四集

小津安二郎 DVD-BOX 第四集

*1:「秋立ちぬ」は銀座が舞台の映画です。銀座というと、今では川といってもぴんときませんが、1964年開催の東京オリンピックに向けて、どんどんと埋め立てられてしまったからで、本来の銀座は川と堀で囲まれた土地だったようです。そうした時代背景も「秋立ちぬ」ではとても重要でした。「秋立ちぬ」の橋も、川の埋め立てと共になくなってしまったと想像します。どこにあった橋なのかは私にはわかりませんが…。なお、現在、成瀬巳喜男特集を開催中のフィルムセンターは京橋にありますが、地名どおり、そこには昔、銀座の端に位置する橋があったのだそうです。