インコ道理教 / 御法度

小泉純一郎率いる自民党が大勝した結果、改憲論議はいっそう進むと予想されるわけです。また、小泉純一郎を取り囲む、女性という性だけで比例上位を与えられた(これは揶揄ではありません。自民党が選挙に当たって、女性を各地の比例一位にすると宣言・実行したことをうけての発言です。しかし、当然ながら、比例の一位には優秀な政治家が立つべきであり、女性だから一位にするというのは、そのまま女性蔑視であることは言うまでもないわけです。「性」が売り物になるというイメージを付与され平然とするキャリアな女性たちは、市民感覚を持った女性を国会に、という、旧社会党のマドンナ旋風と質的に異なるとも言えます)新人国会議員たちを見て、その構図に10年前にテレビをにぎわせた宗教団体を思い起こさせられるわけです。そこで、大西巨人の最新作「縮図・インコ道理教」を読んだのでした。

amazon、タイトル、間違えてますね)

縮図・インコ道理教

縮図・インコ道理教

その「献題」において、いたってロジカルに、このように書かれています。

 本来、なにものも、いかなる官威権力も、「いつも死を控えて生きる奇怪な毎日」を各人に強要強制することはできない。それは、定言的命法である。
 さて、「宣戦布告」のある政治的殺人は、「戦争」と呼ばれ、「宣戦布告」のない政治的殺人は、「人殺し(ルビ:テロリズム)」と呼ばれる。それが、既住(現在まで)の通俗概念であって、前者は「いつも死を控えて生きる奇怪な毎日」を国民各個に強要強制する。「国家」という「官威権力」のこういう理不尽な(上記の定言的命法に正面から背反した)やり口は、抜本的に是正せられるべきである。
 「宣戦布告」の有無にかかわらず、どちらも、それが政治的殺人であることにおいて、一様に「人殺し(ルビ:テロリズム)」であり、したがって「人殺し(ルビ:テロリズム)反対」は、すなわち「戦争反対」でなければならない。

「縮図・インコ道理教」P8〜P9

つまり、テロリズムに対して正義の戦争を挑む、などということはありえない、どちらも単にテロリズムであり、そこに国家のお墨付きがあるかないかに差異はない、ということです。私は、この原理的な考え方に強く賛意を感じます。また、死刑も同様の理由で、テロリズムと同義であり、「死刑は、全世界的に、全廃されねばならない」(P20)とも思っています。(あ、なお、この本は「小説」です。念のため。)

その前提において、日本国憲法第9条を考えると、この条文を戦勝国が敗戦国に押し付けたものであるかどうか、といった問題とはまったく無縁に、グローバル・スタンダードな正当性を帯びていると結論付けることができます。戦争は、人殺し=テロリズム以外の何者でもなく、したがって、国家はそれを永久に放棄しなければならない。単純です。

現在イラク国内で起こっている「テロリズム」を「レジスタンス」と言い換える努力は、様々な場所で行われていますけれど、それを無意味だというわけではありませんが(というのも、そうした考え方が示すアメリカからではない視点も大切なものであることに違いはないので)、この本ではそれに触れながら、なお「レジスタンス」をも「テロリズム」と厳密に定義することで第9条を再考する試みがなされます。なぜなら、「レジスタンス」の容認は、国家による武力行使の容認へとつながっていくからです。どちらもを、敢えて「テロリズム」と呼ぶ。そこから「ブッシュ主導のイラク空爆と広義のイラク側のテロリズムと(そんな二とおりのテロリズム)が、行われてきた。ところで、人類の存続的・反映的な未来は、そういう考え方・行き方の否認すなわち<「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使」を「国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄すること」こと>の上にしかあり得ない。」「上記「二とおりのテロリズム」の否認こそが、「日本国憲法」第九条の明文であり、また今明日における全世界各国の国是でもあらねばならない。」(ともにP98)と導かれるわけです。これは、登場人物一人の考え方として示され、他方によって「現実遊離の観念的理想論に過ぎない。」(99P)という記述もなされていますが、しかしそれが原理的なある種の正しさを帯びていることに変わりはないでしょう(ただし、国家が敢えて「テロリズム」と「レジスタンス」を使い分けてきた事実・歴史を忘れてはいけないと私は思います)。

私は、ここで上記の「原理」が「現実遊離の観念的理想論に過ぎない」と言われてしまうのは、単に資本主義経済の繁栄においては、搾取される側がたえず作られねばならず、そうした状況を作り出すために戦争が有効である以上、戦争は起こり続ける(無理にでも起こされてしまう)という現実があるからだけではなく、空爆をされ、占領をされた側にとって、その状態は何かせずには耐え難い状況であり、かつ、何かしようとすれば、選べる手段は非常に少なく、そして、もっとも安易な手段としての武力行使があるからではないかと思っています。しかし、そうした「現実」から「だけ」ものを考えるようという呼びかけには、最低限必要な誠実さすら欠落しているケースが多々あります。また、単に「原理」が指し示すところがなにかを考えなければ、「現実」においてどの方向で戦っていくべきかを簡単に見失ってしまうからです。

ところで。この本における「オウム真理教」ならぬ「インコ道理教」はどこにいってしまったかというと、本当は、インコ道理教をめぐる問答がこの小説の主軸になっているにもかかわらず、それを私が憲法9条にひきつけて先に整理してしまったので、すっかり抜け落ちてしまったのでした。けれど、ではその二つが分離可能だからそうなったというのではありません。むしろ、思考としては不分離です。なぜなら、「宗教団体インコ道理教にたいする国家権力の出方を、人が、<近親憎悪>なる言葉で理会する。」という命題が、繰り返し問われ思考されるこの本では、国家とインコ道理教とを「宗教団体・無差別殺人組織」として相似形であることを示している、言い換えると、インコ道理教は、国家の縮図(あるいは「天皇制」を有する「皇国」の縮図)として指し示されるからです。

ただ、おそらく、その相似性を見出したところで、何か結論が出るわけではないのだと思います(この本には、どこか結論を投げ出すようなところがあるのですが、それは無責任になされるのではなく、むしろ結論という形がふさわしくないからだと思います)。私は、これを、テロリズムと戦争の<近親憎悪>を繰り返すこの世界には、無数の相似形があり、その中に複数の形で私たちは所属し、かつ生きていかなければいけないわけで、では、そこで<近親憎悪>を思考するとは、国家やインコ道理教=オウム真理教を私たちの視点の外において考えることのできるなにかではなく、あくまで内側にあって考えざるを得ないということではないか、したがってそれはスタティックな結論に結びつく何かではないのではないか、と考えます。<近親憎悪>は、私たちのものでもあり、また私たちに跳ね返ってくるものでもあるのかもしれません。実際、私もまた所属する社会の只中で、オウムのサリン事件は起こったわけです。また現在も絶えず生成され続けています。私たちは、<近親憎悪>の現場、ただ中にいるのかもしれないです。

そう思うのは、まずは森達也監督の「A」「A2」という、オウムをめぐる二つのドキュメンタリーにおいて、私たちの<近親憎悪>が、メディアのカメラの形を借りてどのようにオウムに向かっていったかを見ているからです。「A」のなかの、警察によるオウム信者不当逮捕のシーンなども、人権を侵害した宗教団体には、人権を侵害し返してもいい、というあってはならぬ考え方が、官警にあることをあっけなく暴きたてます。そして、そこで、では権力に対して私たちはどうするのか、ということが、目撃者に問われていくわけです。

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あるいは、大島渚監督の「御法度」(1999年)に、国家とオウム真理教の相似関係を重ねてみることも出来ると思います。天皇制の国家=日本と、近藤勇を核とした一種のテロリスト集団の新撰組。さらにその新撰組を国家と見て、ホモソーシャル純化された図式を見出し、その中に、ホモセクシャルな力学を働かせて、近藤勇とは別の負の中心になり始める美少年(松田龍平)の存在。そうした複数の相似形の中で、新撰組は国家に、松田龍平新撰組に、圧殺される運命だったわけです。

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そんなわけで、BGMは坂本龍一の「御法度」OSTです。すごく好きですね、このアルバム。名盤だと思うのですけれど。映画も好きだから、バイアスがかかっているかもしれません。

御法度?GOHATTO?

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  • アーティスト: サントラ,坂本龍一,Masayuki Okamoto,Keiko Narita,Izumi Iijima,Atsushi Ichinohe,Tamami Touno
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  • 発売日: 1999/12/10
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