さよならみどりちゃん / 矢野顕子

BGM : 矢野顕子「Super Folk Song」

手元に荒井由美松任谷由美もなかったので、代わりに矢野顕子の本作を。荒井由美もすごく好きな曲があるのだけど、どのアルバムには言っているか分からないで、放置し続けているのですよね。今度探してこよう。

名曲揃いの矢野顕子によるカバーソング集。糸井重里氏に書いたアルバムと同名の名曲からはじまって、鈴木博文大寒町」、佐野元春「SOMEDAY」、山下達郎スプリンクラー」、鈴木慶一はちみつぱい)「塀の上で」、THE BOOM「中央線」などなどを矢野顕子風に仕上げたアルバムです。特にパット・メセニーが彼女にプレゼントした「PRAYER」という最後の曲は、このアルバムのベストソングだと思います。しっとり。

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古厩智之監督の作品は「ロボコン」も「まぶだち」もたまたま上映時期に立て込んでいたのか見逃してきていて、今回も、上映期間が短いということもあるのですけれど、見逃してしまいかねないところを、今週いっぱいということであわてて駆けつけてみたのでした。そして、これまで見逃してきたことをかなり後悔してしまいました。「さよならみどりちゃん」はかなり良いです。東京は新宿トーアで9月16日(金)までの上映です。詳しくは公式HPをどうぞ。

ロボコン [DVD]

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だらしなくてわがままな、彼女がありながら平然と他の女にも手を出す、そんなゆたか(西島秀俊)を好きで好きで、彼女にしてもらえなくても、彼が家に来てくれるのを待ち続け、彼の願いなら何でも聞いてしまう、そんなゆうこ(星野真里)の物語ですから、ある意味、男性にとって都合の良い女ではあるのです。けれど、何が欲しいかわからないままゆうこを欲する幼児のようなゆたかと、ゆたかの前で溶けてなくなってしまうような恋愛から次第に自分自身を取り戻していくゆうこの姿を見比べると、自分自身を取り戻しても恋は終わらないのですけれど、でも、欲しいものが判っているだけでもゆうこのほうが「強い」のかもしれないと思えてきます。

恋愛は、思いの一方通行が複数あるだけ、たまたまそれが合致したらうまくいく、というシビアさは、当然のことなのかもしれませんけど、しかし相互に思いが合致しなくても肌を触れあわせることは出来るし、触れ合ったとたんに「溶けてなくなった」と感じるような恋愛は可能なのです。可能というか…よくあるというか。それを映画にする。するとこの映画では、視線劇(双方の思いが示す方向の一致やずれを浮かび上がらせる映画の運動)と接触する肉体同士(それは一方通行でも十分に思いが通わなくても可能)のせめぎあいが起こっていきます。鮮やかな視線の切り替えしのカットがあったかと思うと(たとえばゆたかがホースで水を浴びる姿をゆうこが見るシーン。そこで視線は強く思いになって現れる)、手をつないだまま走り続けるシーンや乱暴に肩を抱き寄せて歩き出すシーンがあって、それから「好き」という言葉もうまく交わせないセックスのシーンがあるのです。しかし、そんななかでもゆうこは、視線の方向(思い)と肉体の接触を強く一致させていて、どうしようもない男であってもゆたかを好きだと言い切る、そんな迷いない中心としてある。そんな「強さ」ゆえに、次第次第に彼女は、映画の中で恋愛と身体をどんどん結びつけていき、その肉感を強めていけたのかもしれません。ただ、それは決して奇麗事ではなく、一種の開き直りでもあったのでしょう。

以下、ネタばれです。

まだ見ぬみどりちゃんがゆたかとタクシーで去っていくのを、必死で追いかけるゆうこ、というか演じる星野真里は、決して走る姿が美しいわけではなく、もちろん懸命に走る形相も美しくはないです。どこか腰から下が不安定にぶれるような走り方で、しかもスナックのサンダルか何かで、夜の通りを、タクシーが坂の向こうに消えてしまっても走り続けるゆうこは、その視線と肉体を、奇麗事ではなく結びつけながら、一挙に存在として膨らんでいきます。薄汚れたぼろぼろの格好で、とぼとぼと家に帰っていくゆうこは、みどりちゃんと別れてゆうこの帰りを待っていたゆたかをみて、「スナックをやめたい」と宣言します。そうして、ゆたかの言うことだけをただ聞いていた自分を少しだけ取り戻す。そして少し上目遣いで、まるでにらむようにゆたかをみて「やりたくない?」と聞くのでした。

そこで初めて「溶けてなくならなくてもいい」と思いながらしたセックスは、「とてもよく」て、ゆうこは「ゆたかの体もごつごつしていて」というのですけれど、それはむしろ、自分がその手ごたえを感じるごつごつした存在になった、ということなのではないかと思います。

この映画の白眉は、そんなごつごつした存在になったゆうこが背中を向けたゆたかに、「私はゆたかが好き。だからゆたかも私を好きになってよ」と投げかけるシーンだと思います。ゆうこは(というかここでは演じる星野真里をリスペクトしたいのですけれど)、全裸でベッドに座っています。猫背で、決して大きくはない胸をさらして、肩も落として、やや上目遣いで。カメラは、開け放った窓越しに町並みが見える状態のベランダをバックに、腰上で彼女を捉えていて、腹部は太ってはいないですけれど、姿勢が悪いのでしまりなく見えます。この映画は、ゆうこ=星野真里が、こうした飾るには程遠い姿を、次第に見せていくまでの過程を追いかけた映画といえるのです。映画の中盤までは、ラブシーンがあっても、とても上品で、胸を見せるシーンもありませんし、行為はさらさらと約束事のように流れていきます。ところがこのシーンではすっかり変わって、エロティシズムとはまったく関係なく、何か投げ出されたままの飾らないからだが、飾らない言葉をぽんと投げるのです。そこではごつごつした手ごたえのある女の子がいるように思います。これだけ飾らずにごつごつした身体を、恋愛映画のヒロインが、同時に恋愛的な柔らかさを孕みながら見せるショットを、私は他に思い起こすことが出来ません。女性を、美しく見たい、飾り立てたい男性的な視線がここにはありません。女性が主たる語りの映画としての至極自然な選択がなされたのだと思います。

背を向けたまま応えぬゆたかは、やっと振り返ると、じゃあなと挨拶だけして去っていくのでした。別に恋愛がうまくいったわけではないわけです。ただ、ややたるんだ腹部を感じさせながら、床に座るゆたか=西島秀俊はどこか希薄な存在となり、彼女の前でかすんでしまったように感じます。そしてゆうこ=星野真里は、恋愛の結末とは別に、映画の中でさらに豊かに膨らんでいくのです。歌が下手だ、といって、スナックのアルバイトをしながらずっと避けてきたカラオケを、ゆうこは、店をやめるその晩に、やっと歌います。荒井由美の「14番目の月」です。好きと言うと別れが見えてくる、後は欠けていく満月よりも14番目の月が好き、という歌を、本当に音痴だったゆうこは、満面の笑みを浮かべ、おかしな振り付け、繕うのではない気持ちを込めて、熱唱します。この最後の途切れずに続く長回しで、音痴であることって豊かなことなのだなぁと、そうしたことが起こるのが映画だなぁと、気づかされるのです。

脚本は渡辺千穂塩田明彦監督の「この胸いっぱいの愛を」に参加しているとのこと。カメラワークも素晴らしいのですが、撮影は池内義浩。公式HPによると、田村正毅カメラマンの助手をしていた方だそうで、青山真治監督の「SHADY GROVE」のカメラマンでもあるとのことですから、これは覚えておかないといけないですね。他に、「レイクサイド・マーダーケース」、山下敦弘監督「リンダリンダリンダ」の撮影も担当しています。