メゾン・ド・ヒミコ / Fred Astaire

BGM : Fred Astaire「Three Evenings With Fred Astaire And Astairable Fred」

メゾン・ド・ヒミコ」の中の1シーンを見て、なんとなくミュージカルっぽい音楽がいいなぁと思いCD棚をあさってたら出てきました。フレッド・アステアが出演し、メドレーを披露した3つのテレビ番組からの曲と、「アステアラブル・フレッド」というコンピアルバムからの13曲を追加して作られたアルバムです。「チーク・トゥ・チーク」とか「ナイト・アンド・デイ」とか、素晴らしくて、このアルバムではメドレーになっているので、ちゃんとまるまる収録されているアルバムを買おうかなぁと、欲望を刺激されています。あと、このアルバムの最後を飾るのはアステアとオードリー・ヘプバーンの「S' Wonderful」のデュエットです。「パリの恋人」(スタンリー・ドーネン監督)の中の曲ですね。

パリの恋人 [DVD]

パリの恋人 [DVD]

Heaven I'm in heaven …とか、あんな風に、歌って踊れたら、人生はどれほど幸福だろう…と無益なことを書いてみたり。いや、もう、無条件にやられてます。曲もガーシュインであり、アーヴィング・バーリンだったり、コール・ポーターであったりするわけで、名曲揃いなのです。「チーク・トゥ・チーク」はマーク・サンドリッチの監督作「トップ・ハット」の中の有名曲でした。アステア&ロジャース&マーク・サンドリッチの作品にはずれはない、というのが私の印象です。

トップ・ハット [DVD]

トップ・ハット [DVD]

ジョゼと虎と魚たち」が素晴らしかった、犬童一心監督&渡辺あや脚本の第2弾「メゾン・ド・ヒミコ」を見てきました。原作はありませんから渡辺あやのオリジナル脚本と言えるのでしょう。

これは、一種のユートピアの映画です。ゲイのための老人ホーム、メゾン・ド・ヒミコを開いた田中泯は末期のがんに侵されて死の床にあり、最後の恋人のオダギリジョーが、彼が20年も前に捨てた娘・柴咲コウを雇い、老人ホームの手伝いできてもらおうとする、という話です。老人ホームには、様々なタイプのゲイが集まり、人生の終わりに向かって閉ざされた場を生きています。オダギリジョーは、田中泯をサポートし看病しています。

どこか「まぼろしの市街戦」を思い起こしてしまいます。ゲイと精神病患者を並べて語ることに不快さを感じる人がいたら申し訳ないですが、そのユートピア性において共通するところ感じるからです。その内部は、とじられた自由空間です。その外に出ない限りにおいては、ばらばらだが限りなく平等な場が広がっています。そして気ままな喜びに日々を費やして生きる。しかし、一歩外に出れば、あるいは夢のようなその場所がなくなってしまえば、すべてが終わる危うさを秘めています。また、一人だけ閉じられた世界の本来なら外部の人間、「まぼろしの市街戦」では精神病院から逃げ出した患者に混じる一人だけ生き延びた兵隊、「メゾン・ド・ヒミコ」では、ゲイではもちろんない女性=柴咲コウの存在が、物語の主軸となるという点でも共通しています。

まぼろしの市街戦 [DVD]

まぼろしの市街戦 [DVD]

まぼろしの市街戦」でいえば、そうした空白のユートピアを作り出しえたのは戦争という状況があったからですが、同時にその戦争が、ユートピアをあっけなく消し去ることは容易に予想できます。「メゾン・ド・ヒミコ」では、ゲイのパトロンの存在がその空間を可能にしていますが、パトロンがいなくなればあっという間に消し飛んでしまう。ユートピアを維持するためには、以前、ヒミコが開いていたゲイバーの客だった著名人に脅迫じみた方法でパトロンになってもらうしかない、それが現実です。

ただ、「メゾン・ド・ヒミコ」の場合は、その現実を内部の人間もよくわかっているというところが、大きく「まぼろしの市街戦」と違うかもしれません。内部にいる人間が、その場所をいんちきだ、と指摘できてしまう脆さが「メゾン・ド・ヒミコ」にはあるわけです。その危うさは「まぼろしの市街戦」的なユートピアにひびを入れていきます。そこにこの映画の消極的な可能性が、示されているように思えます。

その自覚性という点を抜き出すとジェームスマン・ゴールド監督の「17歳のカルテ」を思い出させますね。

以下、ネタばれです。

最も重要なのは、柴咲コウオダギリジョーが、互いに好きあって抱き合おうとするのに、そのセクシュアリティの違いために結ばれない、痛々しいシーンでしょう。キスを繰り返し、胸をまさぐりながらも、その先へと進めないオダギリに「触りたいところがないんでしょう」と切り出す柴咲は、閉じられたゲイのホームの現実的な亀裂の一つ、女性と肉体的に愛し合えないことにすっぽりとはまり込んでしまったのでした。それはオダギリジョーから見ても同様だったと思います。

さらに、その現実的な亀裂は「過去」において、むしろ鮮やかに浮かび上がります。脳溢血で植物状態になってしまったゲイの老人ルビイ(歌澤寅右衛門)を、何年も会っていない、父親をゲイだと知らない息子に引き取らせようとする。しかしルビイは下の手術をしてしまっており、いずればれるのは必至であるわけです。それを賭けと称して送り出す。ルビイは、あったことのない孫娘から手紙が来たと自慢げに吹聴していました。そのはがき自体は自作自演だったのですが、おそらくは孫娘の姿を一度覗き見る機会があったのでしょうか、はがきには孫娘の好きな魔法少女アニメの絵が描かれているのでした。そうした、ゲイであることによって切り捨ててきた過去との切断面と向き合わなければならない瞬間が、この映画には多々あります。柴咲コウ田中泯の親子関係が、まさしくそうなのですが。

では、彼らは共に居られないのでしょうか。田中泯は死に、家族関係はもはやメゾン・ド・ヒミコからなくなりました。オダギリと柴咲の関係も不可能です。しかし、恋愛や性、親子関係だけが、ともにいる理由でもないのであって、たとえば性欲は(十分に満たされないのであれ)他でも解消できるのだとしたら、若い男女がそれ以外の理由でともに居たいと思うことは出来るし、意思において敢えてともに居る場所がホームになるのかもしれない。たとえ一時的であっても、ともに居たいと思う人間同士で居ることにしよう。映画は次第に、そんな一種の擬似家族の物語になっていくのです。

そこで閉鎖的なゲイのホームというユートピアは、すこし変質していきます。柴咲コウを積極的に受け入れることで、メゾン・ド・ヒミコはゲイのホームという理念はなくすのかもしれませんが、その代わりもっと別の理念、「ホーム」そのものが浮かび上がるのだと思います。渡辺あや本人は公式HPのなかでメゾン・ド・ヒミコムーミン谷にたとえていましたけれど、閉鎖的な世界そのものが世界の全体とほぼ等しいような場は、もはやこの世界にどこでもないわけですから、それはやはり、意識的に仮構されたものなのです。外部は絶えず意識されます。しかし、ただ閉じられた場所では、意志の問題にはなりません。その外部に向けてメッセージを発し、共に居てほしい人を招き入れることも出来るときに、閉鎖空間は、意思において選択するホームとして、もう一段ステップを上がるといえないでしょうか。

とはいえ、これはやはりぎりぎりだとも思います。老人ホームという設定だから、欲望はどこか枯れていて、彼らを家族とすることを危うくしませんが、実際、ゲイである彼らは、様々な場面で家族を捨てたり、社会に背を向けたりせざるを得なかったわけです。その若さが、もう少しこの映画の中に放り込まれていたとしたらどうでしょう。ユートピアを解体しながら、なおもユートピアを存続させようとするこの映画の弱さが、この映画の良質さでもあると思いつつ、やはり指摘はしておきたいのでした。

田中泯柴咲コウというキャスティングが、この映画の大きな成功の要因だと感じます。田中泯があの声で「あなたのこと、好きよ」という。それも柴咲が、やはりあの感情の起伏はないのに意志の強さだけは感じる声で「許さない」と宣言したのを受けてです(彼女のその演技の徹底が、この映画において、完全にノーメイクなのかどうかはわかりませんが、その相貌もあいまって、非常に効果的だったと思います)。許さないことも真っ当なら、それでも人を好きだというのも、真っ当さなのかもしれません。真っ当さをぶつけ合って支えるのは、俳優同士の存在感です。そして互いにぶつかり合うことで、その間に亀裂が走っていることを示すのでした。オダギリジョーの「愛なんて意味ないじゃん、欲望なんだよ」といううめきもそうですね(オダギリの場合は、高い美意識に基づいたファッションを伴う美しさが、彼を存在として強めています)。そういいながらも、肉体的には愛せない柴咲をオダギリは求めるのです。俳優の存在を生かす演出において、犬童監督は首尾一貫して聡明であり続けます。

ところで渡辺あやの脚本が秀逸だと思うのは、オダギリジョーとの関係が痛い結果に終わる前から、柴咲が西島秀俊に男性的な、性的な魅力を感じていることを描いているところです。彼女は、単にオダギリジョーとの関係が破綻したからでも、彼女の新しい居場所になりつつあったメゾン・ド・ヒミコから急に切り離されたからだけでもなく、西島秀俊を誘惑する準備はその前からなされていたのです。もちろん、きっかけとしてその二つがあったことは間違いないのですが。そうして、性を、オダギリジョー柴咲コウの間でくじき続けること。ラスト、オダギリジョー柴咲コウに「ちゅうしていい?」と聞いて、断られるシーン。軽い冗談に彩られたそのシーンは、この二人の関係の微妙さを、最後までくすぶらせ続けるのでした。