なみおか映画祭 / David Grubbs「A Guess At The Riddle」

BGM : David Grubbs「A Guess At The Riddle」

Guess at the Riddle

Guess at the Riddle

9/6には「The Spectrum Between」を引っ張り出してきましたが、このあたりのアルバムは、印象が混じっていて、どっちのアルバム二度の曲が入っていたのか、かなり曖昧になってます。なのでここで整理(笑)。

T1「Knight Errant」がまずポップな滑り出しで、かなり好き。T2「A Cold Apple」T3「Magnificence As Such」とやはりポップな曲が続き、ギターの響きの「聡明さ」と歌のポップさ、という言い方が正しいかどうかわからないのだけど、が入り交じって、かなり気持ちの良いアルバムです。後半はどうなるのだっけ?

そうそうインスト曲T4「The Neophyte」のギター曲とT5「The Neophyte」のアンビエントなエレクトロを挟んで方向転換、夜の森をとぼとぼと漂うような感じの音の世界へと変わっていくのでした(歌詞に「森」という言葉がちゃんと出てきますね)。T6「You'll Never Tame Me」T7「Your Neck In The Woods」あたりの、ぽつぽつと歌われるボーカル曲は、バックの音の、何でもないようで、洞窟の奥で児玉がノイズとなって反響し続けるような音世界も含めて、かなり好きです。

そしてT8「One Way Out Of The Maze」からもう一度ポップ路線に戻るのだけど、上手く戻りきれないというか、何か決定的に歪んでしまったかのように、ポップなんだけど、どこまでも落ちていくような感じの曲が続いてT11「Hurricane Season」T13(ボーナストラック)「Aging Young Lovers」などが、とくにすごく微妙なバランスの上にある曲だと感じます。

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なみおか映画祭が本年、神代辰巳の特集上映をすることを知った青森市(浪岡町は市町村合併のため、青森市となったのだそうです)が補助金の打ち切りを決定、そのためになみおか映画祭が今年限りなくなると決まったのだそうです。神代辰巳といえば、日活ロマンポルノという風土の中で数々の傑作を作り、世界的にも認められている巨匠です。個人的にも最愛の映画監督の一人で、「恋人たちは濡れた」「四畳半襖の裏張り しのび肌」「赫い髪の女 」「悶絶!!どんでん返し」「鳴呼!おんなたち 猥歌」「青春の蹉跌」「アフリカの太陽」と、好きな作品を軽く列挙するだけでも、胸が熱くなります。これを文化として認めずに、何が日本映画の文化なのか。また、なみおか映画祭は、私は一度も足を運んでいないのですが、そのプログラムの意識の高さ、選択の確かさにおいて希有な映画祭だとは知っていたので、たいへん残念にも思います。それがこのニュースを聞いたときの、第一の思いでした。

こちらに番組のディレクター三上雅通氏の、「映画祭終結の辞」があります。是非お読み下さい。

青山真治監督が、怒りの声明をboid.netで掲載していました。

あと、神代辰巳作品をDVDになっているのだけ…。

赫い髪の女 [DVD]

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嗚呼!おんなたち猥歌 デラックス版 [DVD]

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青森市が文化意識を決定的に欠いている、と責めることは簡単だし、それは悲しいほど事実だと思います。またそれは、青森市だけの問題ではないのだとも思います。日本のそこかしこで、文化を擁護できない凡庸さ・鈍感さは首をもたげ、まかり通っている。そして、本当の意味での「教育」を踏みつけにしながら、公益を語ろうとしている(私には、神代辰巳を見る以上に有益な教育がそうそうあるとは思えないのです)。「闘争のための闘争は本意ではない」と三上氏はおっしゃってますが、それでも、貴重なものは貴重なのだから、市こそが率先して映画祭を守ってほしかった、とやはり言いたい。

しかし他方で「税金で、市がポルノを上映するらしい」と聞いた人々の反応も容易に想像がつきます。税金の無駄遣いだと思う人は多くいるでしょう。公益に反すると思う人々も。その人々に向けて説明が出来ない、という青森市の立場は、それほど不自然なものではありません。民意を予測し対応する。保身の部分が強いとしても、それはひとつの行政のあり方ではないか、といえてしまうのです。もちろん、それは「文化行政」としては、「文化」の本質的な危うさへの無自覚と硬直において、また文化を殺しかねない点において、やはり失格なのですけれど。しかし、では合格点の「文化行政」を行える自治体がどれだけ存在するのか。おそらく実際には、可能な範囲の小さい試みが各地に点在している程度でしかないのではないでしょうか。その一つが、今、なくなってしまいそうなわけです。多くの鈍感さ・凡庸さを孕んでいるとはいえ、いったん決定を下した行政の意見を翻すためには、かなり丁寧なコンセンサス作りが不可欠ではないかと想像します(今回は、それはかなり難しいようですが)。

挫けずに、したたかに、何が可能かを考えていかないといけないのだと思います。「なみおか」という地に奇跡的に可能になっていたものが、簡単につきこわされてしまった背景に、市町村合併があったことも見逃せません。小さな町で可能だったコンセンサス(あるいは自由)が、大きな市では不可能になってしまう。それはよくあることです。大きくなればなるほど、行政は保守的にもなりやすい(放任しづらい)でしょうし、全体のコンセンサスもとりづらくなるでしょう。では、何が可能なのでしょう。

たとえば、これは夢想ですが、どこかの市町村合併を免れた小さい町村が、三上氏とそのスタッフを招き寄せ、新たに「なみおか映画祭」の遺伝子を引くような映画祭を形作っていくことは出来ないか、とか思うのです(ご本人の意志とかぜんぜん知らずに、全く勝手なことを言っています)。でも、下手な村おこしとかよりは、ずっと有効に、日本中に名を知らしめることが出来ると感じます。ある土地の名を冠した映画祭は、その地において決定的に縛られ、失われたらそこにあった良質さは二度とは戻らないかもしれません。土地とは、そうした力も持つと思います。しかし、別の場所でも、別の何かが花開くかもしれません。大行政の下にない、小さな隙間隙間の活性化が、日本の文化においても教育においても、とても大事なのではないか、とも感じるのです。

逆に、お得だよ、とすら言えるのかもしれないですね。勝手に手放してくれたわけです。青森市が。では、貰うよ、と。そういう町村がどこかにあって欲しい、なんて思うのでした。たった130万の助成金と、会場だけで可能なことです。ええ、間違いなく、お買い得ですとも。