成瀬巳喜男(6)/ Brian Eno「Before And After Science」

今日のBGMは単なる連想ゲームで、成瀬→川→River→By This River→このアルバム、という流れでした。

Before & After Science

Before & After Science

T8「By This River」はナンニ・モレッティ「息子の部屋」で使われていたこともあって、印象的です。

息子の部屋 [DVD]

息子の部屋 [DVD]

 ※

成瀬巳喜男の映画を見ていると、状況を支配する、しないにかかわらず、状況を好転させられるポジションに居るのに、その怠惰や強欲によって、ひたすら悪化していくにまかせる人物が多く登場します。実に不愉快な、そうした存在が、しかし否定されるのではなく、それはそれで世界の一員としてずっと居続け、許されていくのも特徴的だと感じます。そして、それはおおむね「男性」という一般名詞が付与されるのですが、今回成瀬巳喜男の映画をまとめてみる中で、必ずしもそれは男性に限ったことではないことにも気づきました。

9/17の日記を、出来れば先に…。また、成瀬についてはそれ以前にもいろいろ書いてます。)

以下、「生さぬ仲」「君と別れて」「舞姫」「ひき逃げ」「稲妻」「腰辧頑張れ」等ネタばれあり。

野田高悟の脚本による「生さぬ仲」では、育ての母から生みの母が子供を誘拐する際に、育ての母の義母が、贅沢な暮らしをしたいばかりに誘拐に協力、孫ごと裕福な生みの母の元に転がり込み、その気になればいつでも逃げ出せたろうに、泣いて帰りたがる孫を連れ帰ろうとはしないのです。しかし、この非道な老人は、映画の最期には許されて、育ての母の元に戻った孫と、ようやく出所してきた息子とともに、仲のいい家族に納まっているのでした。母親を見捨てたりはしないのが時代的にも当然として、何の軋轢もなく許されている様は、とても不気味です。しかし、それが成瀬の世界だといえば、そうなのです。誰も破滅しない、しかしだからこそ、残酷である、といえるのかもしれません。世界は、改まろうとしないのです。

老いた女性を描くときの成瀬の残酷さは、その対象にまったく同情を許さないところです。「まごころ」では、孫にその父親が如何に駄目な人間であったかを懇々と説いて聞かせる祖母が出てきます。彼女は、だからお前は母親の苦労を考えて尽くさねばならないと説教しているというのですが、実は少女にとって、それは自己を否定とすら言えるものだったと思われます。しかし、その祖母も、一家の中で当然の存在として居続けます(ああ、「晩菊」を見たくなってきました。今回の特集では、スケジュールがあわず見逃してしまいそうなのですが…)。

「君と別れて」ならば、働きもせずに、長女に続いて次女をも芸者にしようとする父親が挙げられるでしょう。その父親も結局、改めることなく娘に依存し続けます。それはどちらかというと怠惰さが強いケースですが、成瀬的な男性といえば、強欲な男性、たとえば「稲妻」の次々と姉妹に手を出していく小沢栄などが思い出されます(ただし「稲妻」では、その背後に、四姉妹をそれぞれ別の父親のことして産んだ母・浦辺粂子の存在も忘れてはいけないのだと思います。)。「舞姫」では高峰三枝子に男性的な金と力で迫って拒絶される見明凡太朗がそのポジションに居るでしょうか。彼らは、しかしその非道においても、破滅していくことがありません。むしろ、当然のようにそこに居座るのです。

男性的な豪腕の発揮とは逆に、豪腕を与えられない男性たちは、その弱さによって状況を変え得ない駄目な人間であると自覚していきます。同じく「舞姫」の山村聰がそうでしょう。彼の強い劣等感がそうさせるのです。そして、不可思議と感じてしまうほど壊れた関係であっても、妻・高峰三枝子は、その夫の元に戻ることを選択します。そこにメロドラマ的な意味づけが、感情的になされるなら、納得できるのですが、成瀬は意識的にそれを廃していきます。もしかしたら、その劣等感を乗り越えても、成瀬の人物たちは、本当に改まることが出来ないから、虚構として盛り上げたりはしないということかもしれません。「夜ごとの夢」の場合、一度捨てた妻子を訪ねて戻ってきた斉藤達雄は、粟島すみ子に受け入れてもらうことが出来るのですが、妻と子を養うために職探しをするもののうまくいかず、子供と一緒に遊ぶ以外は能がない男は結局犯罪に走り、自首してという粟島の声も聞かずに、俺が居たら迷惑だと自殺してしまうのでした*1。つまり、治らない病は治らないのです。「噂の娘」の汐見洋演じる酒屋の隠居が、その商売を自らも少しずつが滅んでいくのを淡々と見続ける諦観も思い出されます。その諦観を生きずに、無駄な抵抗を試みると、「噂の娘」の不正を働く酒屋店主・御橋公や、「生さぬ仲」の倒産する会社の主のように、あっけなく逮捕されてしまうのでしょう。

ところで、成瀬において病というと、車も、(すべての作品に当てはまるわけではないにしても)一種の病なのではないかと感じます。「ひき逃げ」という不気味な映画がまずはありました。復讐すべき対象を見失った高峰秀子が最後にたどり着いたのは、車そのものへの恐怖でした。初期の作品を見ると、高い頻度で子供が交通事故の対象になっています。「腰辧頑張れ」(デビュー作)では、電車に子供が轢かれるという形ではありましたが、交通事故が唐突にコメディ映画をまったく別種のものへと変えてしまいます。「生さぬ仲」では最初に育ての母親が、続いて(自転車に惹かれるので、いまいちインパクトが弱いのですが)誘拐された子供が事故にあいます。「腰辧頑張れ」でも「生さぬ仲」でも、子供は頭に包帯を巻いて布団から首を出して横たわっています。「秋立ちぬ」では、事故自体は起こりませんが、激しく車が往来する道端で、少年は立ちすくみます(それは一種川のようで、それを越えていくことがとても困難な場所として示されています。少年は、ある場所に閉じ込められている、しかし大人は少年をおいて去っていくことが出来るのです)。そして、遺作の「乱れ雲」も交通事故の映画なのでした。

ただし、車に一度乗ってしまえば、それは諸刃の刃で、外へと登場人物たちを連れ出しもするでしょう。「秋立ちぬ」の、晴海ふ頭の寒々しさとは対比的に、そこへ向かう途中の、車中から見た光景の軽やかさを思い出します。しかし、結局は、その海は期待した海ではないのです。地を高速で這う車は、歩行者を歩道に閉じ込め、かつ乗り込んだとしても、自由にどこかへ連れて行ってくれるわけではない。「腰辧頑張れ」では、おもちゃの飛行機が喜びや回復の象徴として登場します。しかし、このなかなか成瀬的ではない乗り物が、現実の空間の残酷さを生きる成瀬の人物には似合わないのか、私の知る限り飛行機が成瀬の映画に出てきたのは、おもちゃであれ、これ一つのように思えます。やはり成瀬の映画は、「女が階段を上るとき」の高峰秀子の周りを回る三輪車のように、地と深く関わって、空に飛んでいくのではない。乗り物として最も自由に近いのは「稲妻」や「秋立ちぬ」で現れるバイクかもしれませんが、それとて見せかけの自由に過ぎないようにも思えます。あるいは船に乗ることもあるでしょう。しかし、そこは成瀬の海であり、川であるわけです。それは、死への旅立ちとほぼいえてしまうのだと思います。

*1:斉藤達雄が強盗を働いた後、夜道を逃げ回る一連のシーンはすごくかっこよいのです。成瀬が犯罪映画を撮り続けていたとしても、きっと優れた映画を作っていたはずだと私は想像しています。そういう意味では「上海の月」も、非常にシャープな演出が、特に車を使ってシーンで見られました。