成瀬巳喜男(7)/ Frank Zappa「The Yellow Shark」

BGM : Frank Zappa「The Yellow Shark」

Zappa: The Yellow Shark

Zappa: The Yellow Shark

いえ、今日は成瀬の芸道ものの話なので、BGMはこれかなぁと(笑)。脈略あるのか???

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成瀬巳喜男の描き出す世界が、残酷な海で囲まれ、残酷な川が亀裂のように走る世界だとして、ではそこで可能なるハッピーエンドとはどのようなものなのでしょう。一つは、海を渡ってくるものの強靭さ、というのが挙げられそうです(「生さぬ仲」)。弱さが、海を前に人をくじく(「夜ごとの夢」)ならば、まずは強くなければなりません。そしてもう一つ、この死や終わりに囲まれた世界で可能なるハッピーエンドを向かえるためには、亡霊と向き合い、その死の世界と和解する必要があるのかもしれません。

と、こう書いていくと、かなりフィクショナルな成瀬巳喜男の捉え方になっているのは承知しているのですが、ただ決して的外れでもないのではないかと思うのは、「歌行燈」という作品があるからです。

花柳章太郎演じる能の若き天才青年が、地方巡業の先で、謡に自信がある老按摩の慢心を、その謡を小鼓に模したひざを叩く拍子だけで挫く(按摩のその芸は素人芸ではないにしても達人の域とも言えず、真の芸、しかも拍子一つの前に敗北する)のですが、それを恥じた老按摩は自殺、人を殺した芸として師でもある父から謡を禁じられ、花柳は門付けをしながら糊口をしのぐ羽目となります…。

昨日の日記9/17の日記あたりは、本日の日記と関係が深いです。またその他の日付にも、成瀬についての記載があります。)

以下、「歌行燈」「旅役者」「生さぬ仲」のネタばれです。

駆け出しで、右も左もわからず門付けをして歩いていた花柳は、ひょんなことで元料理人ながら門付けに身をやつしていた柳永二郎と知り合い、うまがあって共に旅をするようになってからは世慣れた柳の力もあって生活も安定したものの、毎晩のように自分が芸で殺してしまった按摩の夢を見るようになります。実は死んだ按摩の娘・山田五十鈴とかかわりのあった柳は、花柳に、父親の死後芸者になった山田が、客をとらないため激しく折檻され、柳が逃がしてやり、親切な家にかくまったものの、実を売らずに芸者家業を立てるには三味線の一つも轢けねばならぬのに、肝心の三味線の才がない、苦労していると教えます。花柳は、死んだ按摩への償いのためにも、海を越え、山田の居る地へと赴き、身元を明かさぬまま山田に芸を教えると約束をし、父の禁を破って七晩をかけ舞を教えるのでした。それが終わるころには、二人は強く惹かれあうようになっていましたが、山田から見れば父の敵、花柳は「これで父親も浮かばれるであろう」と言い残して逃げるように去っていくのでした。別れ別れになっていたはずが、桑名の地に吸い寄せられるように集まった、山田と花柳、花柳の父と叔父、そして柳は、運命の再会を果たすのか…という話です(なんか、あらすじを書いていて、変に盛り上がってしまいました・笑)。

花柳は老按摩の家を訪ねた際、その美しい娘(山田五十鈴)と出会い、てっきり按摩の妾と勘違いして「かわいい人。死んでも人のおもちゃとなるな」と言い残して去るのですけれど、この父を殺した男の命令が、山田の生き方を決定するところが非常にユニークなところで、彼女は、元来の強さもあったのでしょう、この言葉に従って芸者になってもその神聖な処女性を保ち続けます。それも、尋常でない折檻を受けてもです。さすがは成瀬の海らしく、冬の海、客をとらない山田は絶壁の逃げ場のない岩場にたたされて、客をとるまで恥ずかしい言葉を叫ばせるといわれ、声がやむとサザエの殻が船に居る見張りから飛んでくるというなかで、つまり死の折檻を受けて、なお踏みとどまるのです。

これは、他の登場人物たちにもいえて、強く「本物の芸」を持つ花柳は、その芸ゆえに柳を味方と出来るのだし、またなによりも、その真の芸を山田に伝え、山田がその舞を花柳の父を前にして舞い、真実がそうしてつながっていくからこそ(父と叔父は、ひとめで山田の舞が、息子または甥の芸を伝授されたものと見抜く)、父と息子の和解がなされ(花柳は父が謡い、叔父が小鼓を打つのを聞き、その音の真に惹かれて、父と叔父のいる宿へと駆けつけ、庭からその謡に和すのです)、かつ父親の敵である花柳と山田が、それを乗り越え愛し合うというある意味異常事態まで可能とするのでした(父の敵を愛してしまうことはままあっても、その愛が悲劇ではなく成立してしまうケースは珍しいように思います)。

泉鏡花の原作を読んでいないのですが、かなり原作に忠実だと人に聞かされました。それは、改めて原作を読んだときに判断するとして、しかし「海」を越えて、つまりある意味亡霊の地へとたどり着いた花柳が、自らが殺した按摩とそっくりな按摩を見て恐怖におののき、夜、按摩のかき鳴らす笛が四方八方から聞こえるなかで、震えを押さえられぬ、そうした亡霊に満ちた場所で、しかしそのまことに強き真の芸によって和解と再生を得る、というのは、逆説的に成瀬の映画だと、やはり感じます。つまり「生さぬ仲」でいえば、海を渡った生まれの母を、捨てられた子が許し、受け入れるような逆転が「歌行燈」では起こっているのだと思うのです。それは物語的にはいたって成瀬的ではないですが、逆に無条件のハッピーエンドが成瀬に可能だとしたら、そうした海=不可能をも越える強さがあってのことなのだと思うのです。逆に、ハッピーエンドに向かってそこまで強くなければならないのだとしたら、ほとんど誰もがくじけてしまうだろうし、「歌行燈」などはそもそも才能の問題です、どうにもならないことではないかと思うのです。

この和解の前に、按摩の亡霊が周囲に満ちる夜、震えながら按摩め、と声を上げる花柳に反応して、唐突に店の暖簾をくぐって現れた按摩が、彼の肩を揉む=つまり亡霊ではなく実体となるシーンがあります。原作でも按摩に過去を話すシーンがあるとのことなのですが、映画では過去を話すといっても一言で、「按摩を殺したことがある」と言い放つだけになっています(原作ではどうなっているのでしょう…読んでみないといけないですね、やはり)。しかし、亡霊が実体化して花柳に接触することに、一種の亡霊との和解を見出すことは可能であるように思います。が、他方で、亡霊と実体の区分けのつかない世界に突入し、全員が亡霊化(あるいはフィクション化)した、という言い方も出来るのかもしれません。映画のラスト、宿の部屋と庭で、謡と小鼓と、山田五十鈴の舞(跳ねてます)が繰り広げられる場は、その音が、単なる別取りではなく、本式の響き方をする(舞台で録音したのかもしれません)ので、その舞台と音とが遊離しながら、ファンタスティックな空間を作り出しています。そのリアルからの異常なまでの浮遊、海を渡った先でのファンタジーという意味では、やはり「浮雲」を思い起こさせるのですが、カメラワークも尋常ではなく、クレーンからやや俯瞰で部屋の中を撮っていたカメラが、不意に激しくパンをして、庭の花柳を捉える激しいショットなどは、海に取り囲まれた常の成瀬ではなく、時折現れる異常な場所の成瀬、海の向こうにある成瀬の映像ではないかと思うのでした。

「旅役者」を、「歌行燈」のような芸道ものとして見るのは、かなり見当違いな気もするのですけれど、一芸に秀でた存在が、その芸を追及していった結果、何か過剰なステージへと、死を越えて突き進んでいくという点では共通しているように思います。

といっても、「旅役者」の「死」は、死といっても人間が前足と後ろ足に扮し、被り物をして演じる舞台上の馬の死なのです。具体的には、馬の足役の藤原釜足の大事にしている被り物の馬の顔が潰れてしまったり(それが理由で藤原釜足は出演を拒否し、旅回りの劇団はその初日を迎えられなくなる)とか、代わりに出演した実物の馬が大好評で、仕事を奪われてしまうといった形で現れます(その節目節目で川が登場することは、以前の日記で書きました)。

ですから、物語としては、役者としても所詮馬の足、プライドはあっても大きな力を持たない存在が、そのプライドを守った結果、さびしい結末を迎える話だと言うこともできます。しかし、「畜生に馬が出来るか!」という藤原の台詞や「本当の馬に馬が出来るか!」という弟分の台詞に現れるように、彼らは馬を真似、演じることで馬を越えようとする奇妙な存在で、演じること=フィクションが現実を凌駕する可能性に向けて切磋琢磨しているといえるわけです。となると、それは演劇なり、映画なりの本質(!)かもしれないのです。

すっかり酔っ払った藤原釜足は、この地に来て馴染みになった芸者二人に馬の芸を見せてやることにし(彼女たちは舞台を見に来てくれたのに、実物の馬が出演したので、彼らの演技が見られずにがっかりしたと告げるのです)、馬の扮装をした藤原釜足が、舞台ではもはや命を絶たれた馬の芸を披露し始めます。しかし、いなないたり歩き回ったりしているうちに、言葉を次第になくして行き、突然舞台に出演している本当の馬の馬小屋を破壊して、それを追い立てはじめてしまいます。そして、舞台という枠をはるかに越えて村の中に躍り出たフィクションの馬は、馬の顔を潰し元凶となった公演のパトロンをしている床屋を脅かし道脇の小川に追い落とすと、後は映画のラストまで、ひたすら逃げ続ける馬をおってかけていくのでした。フィクションの馬(あるいは死から蘇った亡霊としての馬)が現実の馬を追い立てるという鮮やかな幕切れ、途中までは暴走を止めていた弟分の声も、最後には聞こえなくなり、前足の藤原鎌足が走り続ける以上、後ろ足も歩みを止めない、その見事な一体性によって、新しいフィクショナルな動物になったかのようなのです。この奇跡的な美しさは、物語的には、彼らは仕事を失った上に、不始末を犯したことになりますから、冷静に考えれば必ずしもハッピーな終わり方ではないのですけれど、同時に、一芸を貫くことで奇跡的に死を乗り越えて、再生する様を見せているとも思うのです。

とはいえ、この劇団が実在の名優・六代目尾上菊五郎の名を部分拝借した六代目中村菊五郎一座である、つまりはなからちょっといんちきな劇団で、しかもその馬の足役であるという点でも、藤原釜足の一念は決して「歌行燈」的な「本物」のポジションに置かれているのではありません。むしろ、馬の足役に強いプライドを持つ藤原釜足は、単に思い込みの強い変わり者でしょう。まさに馬脚が現れているわけで、最初からそれを織り込むところに、成瀬の残酷さがあるのでしょう。その幸福な映画的達成と現実の分裂は、やはり一見幸福な雰囲気に満ちた「まごころ」や「秀子の車掌さん」でも見出せるものだといえるでしょう