エレニの旅

テオ・アンゲロプロスの映画としては、これまでとは違うタイプのものを見た気がします。一人の女性が主人公であることが大きいのかもしれません。たとえば、アンゲロプロスの映画に出てくる人物たちは、多くの場合ゆっくりとあてどなく歩く。そしてそのあてどない歩みの中で、時代が移ろい、歴史と悲劇が繰り返され、象徴的な時間が流れるように思うのです。しかし、「エレニの旅」のエレニの歩みは、少し違うように思います。刑務所からやっと出所を許されたエレニが、大きな鞄を手に、ふらふらと、赤土の坂道を下り降りてくるシーン。その精も根も尽きたような歩みは、とても肉体的で、そういえばエレニは、アンゲロプロスの映画の人物ではあるけれど、必ずしも喪服的な黒い衣装を纏うのではなく、真っ白なウエディングドレスで走り回ったりする、その足の筋肉の躍動もまた肉体的で、そこに存在する生身の女性、という感触が強くするのです。もちろん、これまでのアンゲロプロスの映画でそういう実体を感じさせるような女性が存在しなかった、というのではありません。多くの悲劇的な出来事の中で、男女問わず、肉体が前面に押し出されることは多々あったといえます。しかし、この映画のように、肉体を持った女性が、絶えず主軸になるような映画は、アンゲロプロスの映画として珍しいように思う、ということです。「ユリシーズの瞳」のマヤ・モルゲンステルンなどは、無数の時代に偏在する愛した女性の象徴(そして奪われる悲劇)の存在として、いわば男性の視線の先にある女性であったわけです。対してエレニは、失われるなにかではなくて、むしろこの世界を見続ける肉体、目としてあります。そしてこれまでのアンゲロプロスの映画よりもずっと、肉体的なのです。

とはいえ、たとえば立ったまま船に乗り、移動するシーンに象徴される、アンゲロプロス的な時間が流れるショットも、数多くあります。そのような時間の中では、あてどない人々の時間そのものが前面に押し出されるように感じます。しかし、あてどなさが臨界にあって、何も写っていない光そのものであったり、霧の中であったりにつきあたり、立ち止まって次の一歩を踏み出せない、たとえばそういうアンゲロプロス的なぎりぎりの場所の表現が、エレニという肉体を得て、慟哭へと変わることには、強く心動かされました。アンゲロプロスは、決して臨界にあって、ただ臨界であることに安穏としてきたのではなく、無数のアプローチの繰り返しの中で、越え得ないものを前に様々な最後の瞬間を示してきたように思います。しかし、この映画ほど、生々しい肉体を持ったまま、アンゲロプロスの示す臨界へと向かった人物はいなかったのではないかと思うのです。

新しいアンゲロプロスが、ここにはじまった、と思うわけではありません。むしろ、これはアンゲロプロスの中にずっとあったけれど、しかしなかなか前面に押し出されなかったものが、やっと出てきた、ということなのだと思います。しかし、やっと出てきたことには意味があるとも思います。一定の経過を経ないでは、エレニのような人物へと、アンゲロプロスはたどり着かなかったようにも思うからです。それよりも先に語られるべきものはいくつもあった。けれど、そのあとに語られたエレニが、価値において低いのではありません。その順序でなければならなかっただけなのです。