エレニの旅(2)

初めての続き物です(笑)。(1)はこちら

ネタばれです。

この映画では、エレニとは別の意味で、アンゲロプロスの人物としては、少し意外な感じを与える登場人物が出てきます。それは「狂える父親=王」スピロスです。母親を失った孤児を引き取り、娘として育てたエレニに恋をして、結婚しようとし、息子と駆け落ちしたエレニを執拗に追い続ける彼は、労働者の祭で、息子の弾くアコーディオンにあわせてエレニと踊ると、そのまま憤死してしまう。理性を失って、女を求める男、その存在もまた、女性を中核にした作品だからこそ出てきたように思います。狂気は、悲劇の歴史の中に幾度もあったわけですが、迫害される人々の身体や、死体において、それを示してきたアンゲロプロスが、迫害された人物でもあり、狂ってもいる権力者を描いたわけです。あるいは権力者の側を描くにしても、ストレートな欲望としての狂気などが、前面に押し出されることはなかったように思います。

エレニは、保守的な女性像かもしれません。スピロスの息子アレクシスと愛し合い、駆け落ちはしますが、彼女自身は、受け入れることで生きている人間です。夫となるアレクシスと二人の息子、愛する存在を力なく失うことしかできない。対して、男たちは、それぞれ意志を持って戦争に向かい、そして死んでいきます。アレクシスは家族を呼び寄せるためにアメリカで志願兵となり、市民権を得ようとするが死に、息子のうち政府軍に入る長男は、母親を助けるために、反乱軍に入る次男は、理想のために戦争へ赴き、そして殺し合って死んでいきます。しかし、そうした意志のなかには、何かしらの愚かしさも混じっており、その愚かしき狂気の象徴として、スピロス(=愚かしい男性の欲望)がいた、といえるのかもしれません。

映画の冒頭でエレニは、まだ10代の前半の幼い身体で、双子を出産するのですが、その父親はアレクシスということになっています。まだ性のこともよくわからなかったろう幼さで、母親になってしまうこと、そこにも、男性の愚かしさが働いていると思われます。幼い少年アレクシスが父親とされていますが、これは映画をよく見ると疑わしいところです。もしかしたら、スピロスが父親だった可能性もあります。スピロスが唐突にエレニを妻にしようとすること、異常な嫉妬心、アレクシスが双子の少年たちに、エレニを母親だと紹介しながら、自分を父親だと言わないこと、以上のことから想像されるのです。しかし、確信はありません。ただ、アレクシスが父親でありながらエレニの産んだ二人の息子の兄弟でもある、と想像すると、映画の最後、エレニが繰り返す愛する者を失った悲しみの呟き、息子に亡骸に向かって「あなたは彼、彼はおまえ、おまえはあなた、あなたはあなた」と繰り返す言葉、愛する者をすべて重ね合わせていくような言葉と繋がっていくように思います。エレニは、母親としても、妻としても、娘としても、存在しているのです。その意味では、これまでのアンゲロプロスの映画とは違う意味で、エレニの肉体にこそ、歴史が折り重ねられ、示されているのかもしれません。

ところで、狂える父親スピロスと対称的な存在として、駆け落ちしてきたアレクシスとエレニを庇護するニコスという音楽家が、強い印象を残します。彼は、左翼活動家でもあり、労働者たちが当局の弾圧で祭りを開けずに困っていると、廃屋となったカフェでの演奏を提案して、労働者の先頭に立って、音楽による抵抗を示そうとする理想主義者で、アレクシスのアコーディオンの腕に惚れ込み、彼とその妻を庇護し続けるのです。(その深い愛情は、アレクシスに対するゲイ的な愛の裏返しと見ることも可能かもしれません。このことは、とある人に言われて気づいたのですが。音楽という媒介を経て、スピロスの父権主義がエレニを欲するのとは別種の形で、ニコスはアレクシスを愛したのではないか)

ニコスが、銃弾に倒れるシーンの美しさには泣きました。アメリカ行きを控えながら、不吉な時代の幕開けに外へ出ることもなくなっていたアレクシスが、やっと外に出ると、聞こえてくるヴァイオリンの音楽。白いシーツが幾重にも干された丘のなかを、シーツをかき分けて進むと、幾人もの音楽家がめいめいに楽器を持ち、演奏を繰り広げているのです。そこには、抵抗が、希望への誘いが確かにある。しかし、その演奏は銃声によって簡単に打ち砕かれ、同じシーツの森の中を、腹を打たれたニコスが、アレクシスとの最後の別れをするために、血に濡れた手でシーツをかき分けながら、よろよろと歩いてくる。アレクシスとエレニは、横切る列車をやり過ごしたあと、倒れるニコスへと駆け寄るのですが、もう事切れる寸前で「君に出発のさよならが言いたかった」と行って事切れるのです。

同じ場所に、絶望と希望、戦争と音楽が存在している。それが、アンゲロプロス長回しによってすくい取られていく。その世界のあり方に、胸を打たれます。

エレニが、アメリカに発つアレクシスを見送るシーンも美しいですね。個々は美しすぎるほどです。別離の前の激しいキスのあと、編み上げられなかったセーターを差し出すエレニの、そのほつれた毛糸の先をつまんだアレクシスが、ボートに乗って、船へと向かうとき、毛糸はするするとほどけていき、赤い線となって二人の間をつなぎながら、しかし遂につきると、ぱっと海の上を舞って海面へと落ちる。不吉な予感と共に。揺れるボート、立ちつくしアレクシス、握られた赤い毛糸。鮮やかなシーンなのです。

BGMは、そんなわけで、Eleni Karaindrouの手によるサントラです。泣きます。