DAT politics / 天才マックスの世界

不気味可愛い繋がりで、DAT politicsの「Tracto Flirt」が本日のBGM。フランスのラップトップ・コンピューター・ユニットです。以下のサイトに写真が出ています。調べてみると4人組とあるのだけど、写真だけ見ると3人組なのかな?ともあれ、可愛いです。抱きしめたいです。あるいは抱きしめられたいです。
こちらは、不気味可愛いという思考の形態ではなくて、不気味可愛いを遊技として楽しみましたという感じで、どこか本気なun caddie renverse dans l'herbeと比べると、ちょっと弱い感じはしてしまうのですけれど、それだけに誰もが愛することのできるアルバムだと思います。

Tracto Flirt

Tracto Flirt

ところで、これまで何回か、日記を書き始めた理由を書いてきましたが、もう一つ付け加えると、棚に並んだまま見ていないDVDをまじめに見直す動機に、この日記がなれば、という思いがありました。私は、私自身の怠惰さにうんざりしています。だから、どうにか自分を追いつめないといけないのです。そんな前置きをしつつ、では何を見たかと言いますと「天才マックスの世界」だったりします。ウェス・アンダーソンの新作「ライフ・アクアティック」を見る前に、予習として見てみました。

天才マックスの世界 [DVD]

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天才マックスの世界」を支えているのは、映画のカットとカットは、ただ滑らかな接続によって構築するよりも、滑らかでありながら同時に断絶も孕む方が、より映画であるのではないか、という、一種の意志だと思います。とか言うと、少し穿ちすぎな気はします。ウェス・アンダーソンは、単に不器用にすれ違う人々が好きなだけかもしれません。しかし、そうであったとしても、結果できあがってきた映画は、カットとカットの接続、そこで擬似的に構築される視線の交錯に、実は直接的な断層があることを、明示しているといえるのです。マックスとブルーム、ブルームとその妻や息子たち、マックスとクロス先生、そうした愛情の関係は、互いに目線を交錯させながら、とまどった微妙な表情の元、感情は宙づりにされて、行き場を失うのでした。そして、つながれた滑らかな、多くの省略を孕んだカット群は、物語をどんどんと推し進めながらも、人と人の関係がなかなか良い方向へ向かってはいけない、そんな切なさを絶えずすくい取るのです。そして、この映画が感動的なのは、そうした映画と現実の両方に孕まれた断絶を、登場人物たちが、自らの意志で不器用ながら乗り越えていくところで、「ザ・ロイヤル・テネンバウムズ」(ASIN:B00006JMP4)にも通じる部分ですね。
ところで、カットとカットの間の断絶を浮き立たせるのは、実はカットの長さの決定に、大部分かかっている気がします。カットとカットが滑らかな動きで繋がっているかのように振る舞うためには、カットが俳優の動きを、極力意識させないうちに、次のカットへうつるのがたやすいと思いますし、逆に、1つのカットの中で動きが停滞して見える瞬間があると、次のカットへの滑らかなつなぎは難しくなると思います。つまり、カットとカットの間を浮き立たせるのは、連続するカットが一つの運動であることを阻害するようなとまどいのなかにあって、しかし同時に、単にバラバラなつなぎでは思考は継続して映像を追いかけられなくなりますから、実際は停滞そのものを一定のリズムのようにして繋げていくようなやり方があるのだと思います。ジャームッシュなどを例に出すとわかりやすいのかもしれませんが、そうした作家たちに共通するのは、音楽の趣味の良さかもしれません。

それにしても、ビル・マーレーの間の微妙さは素晴らしいですね。「ロスト・イン・トランスレーション」でも「コーヒー&シガレッツ」でも、「天才マックスの世界」でも、素晴らしい。

ロスト・イン・トランスレーション [DVD]

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