Donna Regina「Northern Classic」 / やさしくキスして

相変わらず、試聴して、気に入った音を買うだけなので、ミュージシャンの背景とか、よくわかっていません。ドイツのKaraoke Kalkってレーベルの、エレクトロニカ・ポップ・デュオらしいです。歌ものです。なんか浮遊してます。浮遊といっても、ぷかぷかとか、ふわふわとか、そういう感じがしないところ、つまりダークな、海の底のような浮遊感、スタイル・カウンシルの「It's a Very Deep Sea」とか、ぱっと思い出す感じなのです。

CONFESSIONS OF A POP GROU

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ケン・ローチの最新作「やさしくキスして」を見ました。

ケン・ローチの映画を見ていると、知性を深く感じます。ケン・ローチの目指すリアリズムとは、現実そのものとはかなり遠いものです。現実とは、基本でたらめな、緩いものですが、ケン・ローチはでたらめさも緩さも許さない、ハリウッドの昔のアクション映画のようなスマートさで、映画を作ろうとするからです。しかし、それはリアリズムの反対である、という判断に繋がるのでもありません。ケン・ローチは、スマートさを、現実の諸関係とそこにある構造を明確にするために、まずは使うからです。現実の諸要素を、余分なだらしなさなどをはずして、純化した上でぶつかり合う様を、ストレートに見せる。そうした知性の映画なのです。

実際、「やさしくキスして」は、アイリッシュ系の女性音楽教師と、イスラム系のイギリス在住のパキスタン人の息子が繰り広げる恋愛劇です。そこには、越えようにも越え得ない、現実的な出来事がいくつも積み重なり、甘い恋愛に向かうことを絶えずくじいていきます。その意味では、恋愛映画でありながら、一切ファンタジーではありません。しかし、非常に整然と、2つの文化の向かい合う様が整理されて提示され、一組の男女に次々と問題が発生するのは、その積み重ねの徹底によって、作為であり知的な構造物でもあるのです。だから、ケン・ローチのリアリズムは、たとえばフレデリック・ワイズマンの映画のように、フィクションとして構築されてもいるわけです。

しかし、たとえばイスラム系の青年カシムの少しハスキーな声なのです。あるいは、音楽教師ロシーンの、住ましているときは普通に美人なのに、笑うととたんに無防備になる目元口元なのです。そうした身体の、物語を演じるだけには収まらない揺らぎの部分が、ケン・ローチの映画において、現実の諸要素(背景)とは別種のリアリズムを与え、愛やとまどいや、裏切りや卑怯さも含めて、それらすべてに、いきなり人間的なふくらみを与えるのです。とはいえ、人間を発見することで、ケン・ローチの映画は安穏とするのでもありません。徹底して構造的であることで、むしろ人間の抱えるそうした人間的なあやふやさや揺らぎを知性の問題としながら、割り切れない現実とその現実を描いた構造物としての映画の構成に収まりきれない人間、その2つのはみ出しをリンクさせ、重ね合わせていくのです。そこには映画のプリミティブな可能性、切断された厳密なコマ数の構造の世界と、その中でつなぎ止められた演じる身体があること、その2つへ言及しようとする姿勢があるのだと思います。

ラストの抱き合うカップルの苦々しさは、キスが愛でありながら、無数の解決できない問題を、触れあった唇の間にすら残しているからです。