アル・クーパー「赤心の心」/ ミリオンダラー・ベイビー(2)

BGMはAl Kooperの「Naked Songs」です。「Jolie」大好きです。歌いたいです。でも上手く歌えないので、カラオケでは小沢健二の「ローラースケート・パーク」を歌っています。そうそう、人はBe Yourself, Be Realでないといけないのです(笑)。

赤心の歌

赤心の歌

さて「ミリオンダラー・ベイビー」のことを、もう少し書きたいと思います(「ミリオンダラー・ベイビー(1)」はこちら)。ああ、でもその前に、お風呂に入って出掛けないといけないのでした。

さて、今はインターネットカフェです。久しぶりです。数年前、札幌で入って以来でしょうか?映画が始まるまでに時間があるのです。それにしても、コーヒーがおいしくないのです。本物のレモンパイが食べたいです。ああ、後でクレープ買おうかな?映画が始まる前に、さささと。

結局映画が始まる前に書き終えることはできなかったのでした。なので、改めてインターネットカフェに戻ってきました。今は個室が主流なのですかね?これなら十分泊まれます。鍵も掛かるし結構安心ですね。見たら、金庫までついています。ふむ。

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ミリオンダラー・ベイビー」の魅力のひとつに、ヒラリー・スワンクの動物的な身体の鋭さがあります。彼女のパンチのスピード。もちろん、撮り方のうまさはあるとは思います。しかし、おそらくこの映画のために鍛えられたのであろう彼女のフットワーク、筋肉、大きなアクションで敵を倒す勢い、その後はにかんだ様に笑うすがすがしさは、生き物としてすごく魅力的です。それは、イーストウッドの老いとの対比にもなっています。映画の中で、イーストウッドはボクサーのトレーナーという最低限の必要上、フットワークを刻んで見せたり、パンチを繰り出して見せたりします。スワンクに教えるためにスピードバッグを叩いたりもする。これは素人目にはかなり上手に見えました。しかし、老眼鏡を大げさにかけたイーストウッドの身体の動きは、年齢から考えれば軽やかといえたとしても、老いが全身に張り付いているかのよう遅さは隠し切れないのです。

ボクサー生命を絶たれる致命傷を試合でこうむったモーガン・フリーマンの、失明し白くにごった右目に対する、強く健康なスワンクの身体の対比もあります。しかし、それらの対比は単なる若さと老い、健康と喪失の2極によって整理されるのではありません。スワンクは自ら望んでイーストウッドをトレーラーに選び、モーガン・フリーマンは最初拒絶したイーストウッドとの橋渡しをし、そしてスワンクはイーストウッドのコーチを受け本当に強くなっていくわけですから、対比の一方で、スワンクの動物的な美しさは、いわば2者(あるいは若干の距離をおいて3者)が育んだものでもあるわけです。

そうした連結と対比が、2者または3者の関係で浮かび上がってくる、というと、「ミスティック・リバー」と、ことに人物配置の類似性から「ブラッドワーク」を思い起こさせます。あの作品もイーストウッド自身の老い/病いが重要な要素になっていました。ただ、「ブラッドワーク」との大きな違いは、イーストウッドの抱える傷が、彼の身体にではなく、彼の外、たとえばモーガン・フリーマンの右目に刻まれているところです。

以下、ネタばれです。

イーストウッドにとって、ボクサーは、まさしく「わが愛、わが血」とも言うべき存在で、彼にとってボクシングはすべてといって過言ではないのでしょう。またスワンクにとっても、彼女を高められる存在は他にないと彼だけを見つめる。スワンクとイーストウッドの繋がりは深く強く、また同様にフリーマンとイーストウッドの関係も深く強かったと想像されます。その繋がりの強さによって、他者の傷を自分のものとして引き受ける関係(それをなんと呼ぶかは別として)があるわけです(イーストウッドは特に「応急処置」において特異な才能の持ち主だとして描かれます。彼は誰よりもボクサーの身体を知り抜いているのです)。

他方、ボクサーはチャンピオンを目指すトレーナーとは別の個人でもあります。むしろ、その見方の方が当たり前かもしれません。映画の前半、なかなかタイトルマッチへの挑戦を許さないイーストウッドの下を去って、見事チャンピオンになる青年ボクサーのエピソードを見てもわかります。スワンクは、イーストウッドの元で育ちながら、すべてイーストウッドのいうことを聞くのではなく、むしろ頑固に自らの希望を貫き通しています(イーストウッド自身がそう語るシーンもありました)。イーストウッドが、(内面の恐怖もあって)彼女の技量不足を理由に押しとどめようにも、彼女は勝ち進んでしまい、チャンピオン戦へと足早に進んでしまう。彼ら(ボクサーとトレーナー)はひとつでありながら、ひとつではない、そして実際ボクサーだけが、栄誉と同様に(致命的なものも含めた)傷も負うわけです。

トレーナーの側から見れば、実際には傷つかないことによって、イーストウッドの「傷」は、彼自身の身体にではなく、絶えず外部にあってしまうのです。まずはフリーマンの身体、その右目に現れています。彼が右目を失う前に試合をとめていればよかった、その後悔は、しかしフリーマン自身のものではありません。フリーマンは、それでも戦ったことは後悔していないと自ら語る。しかしそれはボクサーの思いであり、トレーナーのものではない。2人は、力をあわせてボクシングの世界を生きたのですが、しかし結果的には、ひとつの作業に携わる別々の人間でもあったわけです。そして自ら傷をおえない、外部にあるが故に、イーストウッドはどうしても許されることはないのです(教会に通い詰めながら、彼が救われないことを自ら知っているのは、そのためなのです)。

こうした連結と個別性(及びそれを際だたせる対比)は、この映画を三角関係において際だたせるといえます。モーガン・フリーマンは、ボクサーとしてのスワンクの未来のために、イーストウッドを裏切って、彼女をチャンピオンシップに出させる別のマネージャーを斡旋しようともします(イーストウッドの元を去っていった青年ボクサーも、同じように斡旋されたのでしょう)。しかしこの行為は、スワンクをイーストウッドから切り離そうとする、どこか愛の裏返しの行為にも見えるわけです。また、ボクサー同士のシンパシー、別種の愛情がフリーマンとスワンクの間にあった可能性もあります。共に高みを目指す(目指した)二人ですから。フリーマンが示すのは、ボクサーとトレーナーの立ち位置の違いです。ボクサーは、後悔が後から来ようとも、チャンピオン戦を戦うものであり、トレーナーは後悔すべき結果が訪れないように、ボクサーを止める(時にはタオルを投げ込む)ものなのです(イーストウッドは繰り返しスワンクに「自分を守ること」を第一にするよう指示します。しかし、それは本質的には、リングに上がらないことにも繋がりかねないのです)。

スワンクは、フリーマンの斡旋を断りますが、そのことは重要ではありません。結局彼女としては、イーストウッドとともにチャンピオン戦を戦うことを選んだだけであり、決してイーストウッドを選んだのではないからです。チャンピオンになることを、彼女なりに考えた結果、イーストウッドに「求愛」し、そして獲得したのです。

そしてそれは間違ってはいませんでした。結局この映画では、イーストウッドは無数の後悔をしながら、一度も「タオルを投げ込む」ことをしないのです。結局は、ボクサーと共にイーストウッドは前に進み、同じことを繰り返すのです。それが、イーストウッドとスワンクのラブストーリーのあり方なのです。

思いっきり、ネタばれです。映画を見る前には、読まないでください。

こうして整理していくと、「ミリオンダラー・ベイビー」は、イーストウッドとスワンクの物語ではなく、もう一人フリーマンを加えた3者の映画としてあるとわかるのです。ボクシングのトレーラーと女性ボクサーが、深い信頼関係と愛のもと、ひとつの達成へと駆け上がり、しかし事故によってスワンクの身体が破壊され、半身不随になると、彼女のボクサーとしての輝ける生のために、スワンクの願いを叶えイーストウッド自身が彼女を殺す。そこだけ見れば、これはストレートな愛の物語です。また確かに「ミリオンダラー・ベイビー」には、2者の愛の物語という側面も確かにあります。しかし、フリーマンがスワンクの気持ちを代弁して語り、イーストウッドが自らの手で尊厳死させることを決めるシーンのことを、どう考えるべきなのでしょう?そこには、3者の単純でありながら複雑な関係があるのです。その決意は、右目を失う試合でフリーマンがイーストウッドに主張したことであり、結局は同じことが繰り返されただけなのです。だとしたらそこで見えてくるのは、3者の共通した「あり方」の意志であり、また、避けがたく(宿命的に)「ありよう」だと思います。

また3者という整理は、この映画の物語上の構造に過ぎず、実は他にも無数の組み合わせと関係の中で、「あり方」が問われ、「ありよう」が突きつけられるのだと思います。まったく才能のない、金もない練習生の描写は、やはり残酷な現実の「ありよう」です。そして、登場人物たちは、それを受け入れている。あるいは送っても送っても戻ってきてしまう、イーストウッドが娘に送る手紙。この映画では、その娘は一度たりとも姿を見せません。それもまた現実の「ありよう」だからです。投げ入れられなかったタオルも同様です。ゴング後の不意打ちの攻撃で彼女を半身不随にしたチャンピオンが、その試合のあと一度もスクリーンに姿を見せないのも同じですね。それらの不在は、この世界の「ありよう」なのです。たとえばチャンピオンは、その卑怯な攻撃を無かったことにも、身体を治すことも出来ないわけです。だから、この映画に彼女の存在はもういらない。必要なのは、スワンクに更なる致命傷を与える愛のない家族の方なのです。だから、イーストウッドの娘も、姿を見せないのです。彼女が彼の父親を受け入れないならば、彼女はこの世界の「ありよう」として、姿を持たないからなのです。

しかし、ではイーストウッドの娘が存在として消え失せているわけではありません。むしろ、存在しないからこそ、存在する、というべきなのかもしれません。傷は絶えず残るのです。映画の最後、スワンクを自ら安楽死させたイーストウッドが、失踪するわけですが、しかし彼もやはり、消え失せてはいないわけです。娘を不在の存在として、映画に留めるのがイーストウッドの手紙であるように、今度はフリーマンが、イーストウッドを彼の外部にある傷として、あるいは亡霊として思うわけです。フリーマンが、イーストウッドの映画では珍しい語り部=ナレーションをこの映画でつとめるのは、それ故なのです。やはり、父性を感じさせる彼が、失踪したイーストウッドの替わりに、彼の娘に手紙を書いている、それがこの物語の語りとなっているというラストは、多層的な映画の構造を明らかにしているとも思います。

フリーマンが、ジムでイーストウッドの帰りを待っているときに、ドアがきしむ音がします。亡霊の帰還、と彼は思う。しかし実際に戻ってきたのは、例の才能のない練習生なのです。けれど、そのドアのきしみには、確かに亡霊が介在してもいます。結局、ある意味ではボクサーとトレーナー、才能のあるボクサーとないボクサー、そのすべてが、別個のものであると同時に同じものなのです。ハートの伴わない、身体だけがボクサーの人間ではなく、本当に魂こそがファイターであるならば。あるいは、父性のモチーフから見れば、ラストカットの「本物のレモンパイを食べさせる店(スワンクがイーストウッドを連れて行った、彼女の死んだ父親と良く来た思い出の店)」の汚れたウィンドウ越しに、ぼんやりと浮かぶ後ろ姿は、イーストウッドの亡霊であると同時に、死んだスワンクの父親の亡霊でもあり、傷そのものとしてこの世界に残り続けるものなのです。