VLADISLAV DELAY / フォーガットン

本日のBGMはVLADISLAV DELAYのLIVEアルバム「NAIMA」。カタカナで書くと、ウラディスラフ・ディレイとのこと。フィンランドの方らしいです。実は、今日初めて、このミュージシャンのCDを2枚持っていることに気づきました。「demo(n) tracks」というアルバムです。私は、この手(?)のCDは試聴コーナーで気に入った物を買ってくるだけなので、ミュージシャンとか気にしていないものですから、逆に偶然ミュージシャンが重なると、おお、私のストライクはこの人だったのか、と気づいて嬉しくなります。特に、「NAIMA」と「demo(n) tracks」は一聴するだけだと、同じミュージシャンとは思わないものですから、余計に発見を感じます。こうした、細やかな、立体的な音響世界が、私はとても好きです。とても構造的でありながら、そこに安住せず、むしろ積極的に壊していくようなところも心地よいです。

Naima

Naima

Demo Tracks

Demo Tracks

映画「フォーガットン」を見ました。ジョセフ・ルーベン監督の作品を見るのは、今回が初めてだと思います。

14ヶ月前に息子を亡くし、その深い悲しみから抜けきれず、毎日息子の遺品を手に泣きながら過ごしているジュリアン・ムーアが主人公。ある日、突然、家中の写真の中から、死んだ息子の画像だけが消えてしまう。セラピストのゲイリー・シニーズは、彼女が息子がいたという幻想をずっと抱いてきた精神病患者で、ようやくそれから醒めたのだ、というが、彼女は信じられない。息子と同じ飛行機事故でなくなった息子のガールフレンドの父親ドミニク・ウエストの元をたずね、問いただすが、彼は、自分には娘もいないし、ムーアの息子も知らないと答える。すべてムーアの幻想なのか?と思われたとき、彼女はウエストの書斎の壁紙のほつれの下に、彼の娘が描いた絵を発見する。果たして、ムーアの、そしてウエストの子どもは実在したのか?そして実在したとしたら、誰が何のために、どうやって記憶を消そうとしているのか…というミステリアスな出来事からはじまる映画です。

以下、重要なネタばれです。

しかし、始まり方とは一転、中盤になると、実も蓋もない展開になっていきます。ウエストは、娘が壁に描いた絵をきっかけに、自分には娘がいたことを思い出し、ムーアを連れ去ろうとする国家保安局の手から彼女を逃がす。そしてムーアとウエストは、子どもたちを取り返すべく調査を開始するのですが、すぐに彼らの敵が超越的な力を持つ存在であるとわかってしまうからです。実は、子どもたちは宇宙人に連れ去られている。宇宙人は人の記憶を簡単に操れるばかりか、その存在を知られそうになったら、あっという間に人間を空の彼方に連れ去ることの出来る(文字通り、はね飛ぶように彼方へと人が消えていくシーンが、数度繰り返されます)力を持っているのです。そんな宇宙人の力は、圧倒的で、実は宇宙人の協力者だったゲイリー・シニーズが言うように、「抗う手だてなど無い」のです。そんな存在が空から世界を見下ろし、管理していたら、どうすることも出来ません。だから、その時点でこの映画の物語は、無力化していくわけです。

けれど、それが悪いと言うことではありません。むしろ、物語が不可能なほど管理され支配され、時には排除されかねない世界のイメージが、これほど効果的・直接的に提示されている作品は好くないとすら感じます。宇宙人の存在に気づいた市警の女刑事が、ムーアを助けようと協力を申し入れるのに、そのとたん海の彼方の空に猛スピードで飛んでいくシーンにこそ、最後に母親の愛が買ってしまうという物語の結末よりも強く「現実味」を感じるのです。エシュロンとか、監視衛星とか、そういう文脈に充分鋭敏だったとは言えないですし、どこか弱さを感じる映画ではあるのですけれど。事件は、宇宙人が母親の愛を試すための実験を行っただけで、監視する宇宙人たちには人間的な情愛など無縁とし、さらに国家権力はそれに協力しているとするジェラルド・ディペゴの脚本には、もっと可能性があった気がするだけに、少し残念な気がします。

ところで、一つ記憶に残るシーンが。ジュリアン・ムーアとドミニク・ウエストが車で逃げる途中、カメラが助手席のムーアのやや後ろの視点から運転席を捉えているところで、突然、車の真横に追跡してきた国家保安局の車が激突するショットが、面白かったですね。迫力と言うよりは、おそらくCGとは言え、不意をつかれた感じです。実際の交通事故を車の中から見たらこうかも、と思わせる生々しさがあったのでした。