バス174 /「Afternoon Tea」

本日のBGM : Ambarchi/Fennesz/Pimmon/Rehberg/RoweAfternoon Tea

Afternoon Tea

Afternoon Tea

ドイツのミュージシャン(?)。わからないけれど、気持ち良いエレクトロです。脳の中が電子音の砂浜になった感じ?(笑)と、また意味不明のたとえでした。

バス174」を見てきました。ブラジルで実際に起こったバスジャック事件の記録映像と、人質だった人々や現場にいた警察官、狙撃手、マスコミの証言、犯人の青年を知る人々の証言などで構築されたドキュメンタリーです。「映画」として優れているかどうか、と問われると、それほどでもないと正直に思いますが、しかし事件そのものの展開の面白さと、その背後にブラジルの抱える貧しさや、特にストリート・チルドレンの問題を浮き彫りにしていくところが非常に興味深く、特に終盤は、意外さと現実的なあっけなさが同居する、現実だからこそ読めない展開に、かなり緊張感を持って見ることが出来たのでした。

ネタばれです。

人を殺すことなんか、まったく出来そうにないにもかかわらず、バスジャックをしてしまう青年。ストリート・チルドレンに嫌気がさし、血の繋がりはないが、彼を大事にしてくれた年配の女性を「母親」として大事にし、そして彼女の家に間借りして更正を目指すようなそんな青年でした。動機は、今ひとつ不明確です。お金と言うよりも、最後に目立つことがしてみたかった、ということなのかもしれません。しかし、そう強いポリシーがあるわけでもないのです。幼い頃母親を目の前で殺され、家でしてストリート・チルドレンになり、仕事にもありつけず、貧しく、読み書きも出来ず、盗みで服役の経験もあり、刑務所にも戻りたくない青年が、行き詰まった果てにバスジャックをしている。だから、別に死ぬ覚悟とかがあるわけでもないのです。自ら死地に飛び込むような愚かしさではありますが、自殺というよりは、生きるための愚かしさであったかのようです。

しかし、青年に対するそうした共感や肯定的な気持ちも、最後に人質を、撃たれた弾みとは言え撃ってしまっては、どうにもならないのです。それがこの映画の現実的な側面ですね。「狼たちの午後」であれば、反権力は権力に抹殺されるだけだったのですが、「バス174」で愚かしさは、自分の命だけではなく他人の命も奪ってしまうのです。

ところで、愚かしさが、青年だけのものではないことも、とても重要なところです。暗に警察を批判しているこの作品では、警察官は食い詰めたものが最後になる職業であり、訓練もされておらず、人権意識なども低いことを示唆しています。愚かしさに保身や腐敗も加えられるかもしれません。現場の統制が取れずに、マスコミの勝手な接近を許して、結果、幾度も犯人射殺のチャンスがありながら、マスコミのカメラを気にして行動出来なかったこと、そしてそのために、結果的に被害者を出すことになってしまったこと、それも犯人逮捕時に、人質の顔を先に撃ったのが警官だと言うこと(犯人はよけてしまった)、そして衆人環視の中、逮捕した犯人を車の中で首を絞めて殺してしまったこと、どれをとっても青年の愚かしさと呼応する愚かしさです。

そして、その場にいる人間がすべて愚かしさしか発揮できない空回りの仕方、そんなところに、この映画のリアルさがあるのだと思います。