DAVID BOWIE「ZIGGY STARDUST」 / ヨイコノミライ

本日のBGMはデヴィッド・ボウイの名盤「ジギー・スターダスト」です。このアルバムは、複数スイッチが隠されていて、いろんなタイミングで脳内の物質が出始めるのを感じるのですけれど、特にT4「STARMAN」には、いつもやられます。あとは、有名曲ばかりですが、T1「Five Years」T3「Moonage Daydream」T6「Lady Stardust」T11「Rock 'N' Roll Suicide」とかもけっこうやられます。

Rise & Fall of Ziggy Stardust & Spiders From Mars

Rise & Fall of Ziggy Stardust & Spiders From Mars

きづきあきらの「ヨイコノミライ」(1)&(2)を読みました。高校の漫画研究会が舞台です。普通の高校生と自分たちは違うと思っているオタクの少年少女たちの群像劇です。漫画を描く才能のなさを筆頭にした、駄目さを誤魔化しながら寄り添い、何もしない(出来ない)ことでバランスを取っている…、そんな漫画研究会という場所と、そうした場所に満足できない、しかしどこか勘違いした前向きさで皆に漫画を書かせようとする熱血部長の的はずれな努力が、まず物語のスタートにあります。そこに巨乳の美少女が現れます。そして、小さな世界に閉じこもり、そこで自分の小さな世界を守ることに躍起になってしまう、小さなプライドや自己保身、ごまかしや逃避だらけのオタクたちのネガティブな側面を、少女は悪意を持って暴き出し、奸計でどんどんと増長させていきます。少女もまた、隠してはいますが、そうしたオタクの一員であった。だから、一種の自己懲罰の反転で、小さな共同体を破壊したくなったのかもしれません。

ヨイコノミライ! (2) (Seed!comics)

ヨイコノミライ! (2) (Seed!comics)

彼らの抱えている悩みは、かなり類型的なものだと感じます。「巨乳」というキーワードが象徴するような浅さが無いかと言えば、嘘になると思うのです。ただ、それが悪いというのではなくて、むしろ作者は、浅さに自覚的なのだと思います。ただどこまでもひたすら浅い、そんな「浅さのリアル」とでもいうものがあるのかもしれません。あ、オタク文化を浅いというのではないですよ?この場合、そこに身を寄せ合う人たちの、たとえば自己保身の仕方などにやどる浅さや類型性のことです。

たとえば、ラリー・クラークの「ブリー」とかを思い出します。出てくる人間たちが全員、頭が痛くなるくらい馬鹿で、安易で短絡な若者たち。彼らの浅い浅い愚かしさは、ろくでもない結果へ一直線に繋がっていきます。あるいは、こちらの方が「ヨイコノミライ」に近いかもしれませんが、若さの行き詰まりを、自己放棄と他者への無意味な攻撃、そして流通しやすそうな宗教としてのポップミュージックで誤魔化そうとする「リリイ・シュシュのすべて」の登場人物たち、その痛々しい浅さも思い出します。そしてその浅さに宿るリアルがあったと思うのです。

BULLY / ブリー [DVD]

BULLY / ブリー [DVD]

リリイ・シュシュのすべて 通常版 [DVD]

リリイ・シュシュのすべて 通常版 [DVD]

きづきあきらは、自注的な、醒めた批判眼を、オタクの小さな共同体のなかに用意しています。そこに作品の基本的な視点があるとすらいえます。ですので、決して浅い愚かしさだけをひたすら繰り返す動物=若者を描いているわけではない。ただ、自己批判眼を持っていても、どうにもならない閉塞と挫折にあっけなく行きどまるので、結果的に若者たちは誰も類型の外へ出てはいけそうにないのです。主人公たちはみな少年と少女ですから。他に手段も方法もない、ということなのかもしれないですね。

なんか、変に聞こえるかもしれませんが、このコミックはとても面白いです。複数の関係の配置のうまさ。悪意が人間関係をおかしくしていく過程のスマートな描写。唐突にウブな恋愛感情がわき出す、登場人物たちの細かい動作の積み重ねだけで、感情の高まりを描きだす巧みさ。手と手がふれあったことがきっかけで、ぱーっと感情が盛り上がったり。それは巨乳美少女で押し出しながら、巨乳に頼らないうまさなのです。というか巨乳美少女を主人公にしているくせに、まったく興味ないかのように巨乳を機能させない漫画なのでした。