MILES DAVIS「NEFERTITI」/ 鈴木英夫「危険な英雄」

BGM : MILES DAVIS「NEFERTITI」

もちろん「東京大学アルバート・アイラー」の影響で購入しました。良いです、これ。ジャズの歴史的名盤を前にして言うのも変でしょうが。

「Kind of Blue」の時には、私にはジャズのスタンダードとして響いてしまう、ということを書きましたけれど、「NEFERTITI」は、さすがに私の耳にも異質なものとして響くから不思議です。どうにもつかみ所がない、というか、安心して聴いていられない、ボールの上に置いた板の上に何人かで立って、バランスを取りつづけるような面白さで、それ自体の無意味性に胸打たれるというか。

Nefertiti (Reis)

Nefertiti (Reis)

1957年の鈴木英夫監督の「危険な英雄」を見ました。アテネフランセの「日本映画の転換期」という上映会でです。1957年というと、鈴木清順増村保造がデビューした年でもありますし、前年の1956年には中平康監督の「狂った果実」もあって、日本映画界が独自のやり方で新しい日本映画を準備していた、とは言えるのだと思います。そして確かに鈴木英夫監督の「危険な英雄」も、そうした一連の流れにあると感じらます。直接的には後年の、増村保造監督の「巨人と玩具」に連なる部分を見出すことが出来るからかもしれません。実にシャープでスピーディで、そしてまったく感傷的ではない、ウェットさの欠片もない映画になっています。ただし、増村保造の、人間の身体や欲望を強く前面に押し出し肯定するような形を鈴木英夫は取りません。むしろ正反対の非人間的なクールさ、アメリカのフィルムノワールに影響を受けたようなシャープさで、誘拐事件と、その特ダネ報道に躍起になる記者の物語を描いていきます。日本の映画作家で言うと、どこか森一生を思い出させるところもあります。

と、ここで話がいきなり飛ぶのですが、誘拐報道の協定がいつできたのだろうと気になって調べていましたら、以下のページを発見しました。

これを読むと、鈴木英夫監督の「危険な英雄」は完全に現実の事件を先取りしていたとわかります。

以下、ネタばれです。

というのも通称「雅樹ちゃん事件」と呼ばれる誘拐の報道協定が出来るきっかけの事件が1960年に発生するのですが、この実際の事件は3年前に作られていた「危険な英雄」とまったく同じ展開を辿るのです。

1960年、東京で発生した ”雅樹ちゃん事件”では、当時は誘拐報道に関するなんらの基準もなかったため、第一報から各紙は激しい競争を展開し、犯人の要求、捜査状況などが逐一報道された。不幸にして雅樹ちゃんは殺害されたが、その後逮捕された犯人が「新聞の報道で非常に追いつめられた」と語ったことから、この報道は各社に深刻な反省を呼びおこした。

日本新聞協会(http://www.pressnet.or.jp/)より

これがそのまま「危険な英雄」のあらすじといって良いほどです。

また、「危険な英雄」の中でテレビで犯人に野球選手が呼びかけるエピソードがあるのですが、これも「吉展(よしのぶ)ちゃん事件」の先取りとも言えそうです。実際の事件では、警部がテレビで犯人に呼びかけました。新聞に被害者の家族が手記を掲載する、というのは「狭山事件」を思い起こさせますが、これは当時特別なことだったのかどうか、私にはわかりませんでした。

逆に、実際の事件を元にしたと思われる設定もあります。渋谷の駅前での身代金授受をしようとするシーンがあり、これは映画の2年前、1955年に起こったトニー谷長男誘拐事件を元にしていると思われます。この事件では子どもは無事に帰ってきており、また犯人も渋谷の駅前で捕まっています。しかし映画の中で、渋谷の駅前に犯人が現れそうになったときに、新聞の報道に気づいて取って返してしまう。これは現実に起こったトニー谷長男誘拐事件の記憶と結びつきながら、あの時、報道が人命を優先しなかった場合はどうなるか、をシミュレーションしたのだと言えそうです。

事実に対するフィクションのこの奇妙なねじれは、シミュレーションという書き方をしましたけれど、現実と作品をリンクさせる作家の感覚の鋭さによるのだと思います。そこには、フィクションの過激さを現実が模倣する(従って、フィクションはその表現方法に責任を負うべきだ)といった安易さとは別に起こるのだと思います。むしろ、現実に鋭敏であることが作品にもたらす豊かさというのが当然あり、且つそれをどう思考するかが、とても重要なのだと感じます。

鈴木英夫の鋭敏さは、映画の中で誘拐犯と子どもの描写を一切しないところにあります。誘拐犯がどこの誰かもわからないところで、報道を盛り上げていく記者が主人公なわけですから、それも自然なのかもしれませんが、徹底して子どもを出さないことで、ウェットな物語は一切廃し、ひたすら報道の都合(新聞が売れるためにセンセーショナルな記事を書く)だけを考える記者の合理的思考だけで映画が出来ていくのです。それが、ドラマを期待する観客の目には、もしかしたら不足に見えるかもしれませんが、重要なのは人間ドラマではなく、映画がひりひりと現実とこすれあうために構造化され、合理的な建造物になることなのだと思うのです。映画に何を期待するか、という問題ですね。映画に映画を期待するならば、鈴木英夫のこの合理性に胸打たれると思うわけです。しかし、映画に物語を期待するならば、ちょうど面白い誘拐報道を期待する読者と一緒だと、極言すれば言えそうな気がします。

たとえば、主人公のライバルの、大手新聞社記者というのが出てきて、彼は主人公の報道姿勢を批判するのですが、しかしでは彼が誘拐の報道をしたくないかというとそうではありません。子どもの命を助けるために報道を控えて欲しいという刑事の頼みを確かに彼は聞き入れますが、それとて特ダネを自分しか握っていなかったからで、必ずしも高いモラルを持っているわけではないのです。映画のラスト、殺された少年の死体を、巨大な歯を持ったグロテスクな機械が川底をさらう中、遂に発見され運び出されていくときに、並んだ新聞各社のカメラが次々に死体の写真を捉えていく、そして長蛇の列の各社の車が新聞社へと走る(主人公は、わざと車を狭い橋の先頭に駐車して、足止めし、他社よりも早く写真を届ける細工をしたりもして、徹底的に優位を確保し続けようとする)といったシーンを見ても、主人公の「行きすぎ」は例外として、マスコミ全体が一定の法則に則って動いていること、そしておそらくそれを期待する読者の存在も、見えてくるのでした。

主人公は、自らの意志で、報道のコントロールをします。そして報道が犯人をコントロールもしてしまいます。主人公がモンタージュ写真を不正に警察から奪い、特ダネとして夕刊に掲載させる。それが最後の一押しとなって、犯人に殺人を遂行させるのです。しかも、その掲載を1日待てば、やはり写真を渡され犯人逮捕を(新聞社のために)命じられていた少年配達員が、犯人を見つけていて、少年の命は助かったかもしれないのにです。そうした後戻りできない出来事の一つ一つを、後悔を最後までしない主人公を通して、無駄なくスピーディーに描き出すところに、鈴木英夫の面目があるのだと思います。

主人公の記者を石原慎太郎が演じていることは、時代の必然だったのでしょうが、決して上手い演技とは言えないものの、一種のふてぶてしさが、この時代からちゃんと備わっていて、俳優としてその後も活動を続けたら面白かったのかもしれない、と思わされました。他にも俳優陣はすごく豪華で、誘拐された子息の姉役に司葉子、石原のライバルの新聞記者に仲代達矢、冷静に捜査を進める刑事役に志村喬、ゲスト的な出演ですが誘拐犯に呼びかけるプロ野球選手役に三船敏郎、そして最後に見せ場を作る誘拐犯・宮口精二と、顔ぶれだけでも楽しいです。