ザ・リング2 / Miles Davis「A Tribute to Jack Johnson」

BGM : Miles Davis「A Tribute to Jack Johnson

Tribute to Jack Johnson

Tribute to Jack Johnson

映画のサントラです。「ジャック・ジョンソン」というタイトルで、日本でも一度公開されました。原題は「Jack Johnson, the Big Fights」で監督はウィリアム・ケートン。見たいですね。黒人ボクサー初のヘビー級チャンピオン。圧倒的な強さを誇りながら、白人の妻をめとり、迫害を受けて国外へと逃げざる得なかったボクサー。そういえばマーティン・リットの映画「ボクサー」のモデルでもあります。どれくらいあの映画は史実に忠実なんだろう?とても重たい映画だったことを記憶しています。

全般的にネタばれです。

中田秀夫監督の「ザ・リング2」では、「リング」シリーズでエポック・メイキングだった要素を捨て去り、大きく方向転換していると言えます。「リング」シリーズの基盤には、複製可能で、簡単に持ち運びでき、数分見るだけで死に至る、そして他者に見せることで呪いを回避できるため、人から人に見せることで連鎖させる、そんな呪いのVHSがキーとなっていました。日本版「リング2」でも同様です。また、本来の続編だった飯田譲治監督による「らせん」では、VHS→ウィルス=呪いという転換をしますが、これも本質的には、複製され増殖するメディアの一形態であって、その意味では「リング」のVHSと連続性を持っていると思います。

こうしたメディアによる呪いの機械的な連鎖が新しさだったわけですが、「ザ・リング2」でまったく別の続編を作る機会に恵まれた中田秀夫監督は、自らそうした要素を斬り捨て、呪いが宿る母体をVHSやウィルスといったメディアではなく、ナオミ・ワッツの子ども、人間の子どもにシフトします。幽霊なり呪いなりが子どもに宿る。それ自体はホラー映画として奇妙なことではなく、むしろ古典的な文脈に戻したと言えると思います。

さらに、重要な転換が行われます。「リング」シリーズの呪いの原点である貞子=サマラのいる井戸を、「ザ・リング2」では現実の一部から切り離してしまい、テレビの画面の向こうの異世界に据え、それを遮断する=退治する物語とするわけです。「リング」シリーズが本来もっていた決着のつかない、終わらない物語に、終わらせ方が生まれる。もちろん、ホラー映画は、一度解決策が示されてもそれを覆すことなどは幾らでも可能です。しかし、貞子を現実と地続きの場所に置くことで、連鎖する呪いのマシーンとして機能させていた「リング」シリーズが、その連鎖を断ち切れるきっかけを自らの中に作るのですから、やはり方向転換だと言えると思います。

これは一見、古典への回帰と見えなくもありません。方向転換したあとに目指されるのは、母子の物語、徹底した物語の地平です。日本版の「リング」もメロドラマであり、母が子を救う物語では確かにあります。しかし、呪いの連鎖がそうしたドラマを食い尽くして、不気味なラストへと繋がっていくのです。これに対し「ザ・リング2」では、母子のメロドラマの中に恐怖の連鎖が逆に取り込まれていくのです。たとえば、様らはただ母を求めていただけだった、という「仄暗い水の底から」と重複するモチーフなどが、その現れです。

しかし、ここで中田秀夫監督の「ザ・リング2」がユニークなのは、多くのメロドラマが愛のための自己犠牲を描くのに対し、「ザ・リング2」では、愛する者を殺すことによってしか、愛する者を救えないという状況を作り出していることです。またメロドラマが、視線の交錯によって愛という不定型なものをどう導き出すか模索するのに対して、中田秀夫監督は、視線を取り交わす対象が、愛と憎悪の両方の対象としてあるという反転も行います。ホラーという枠組みを活用して、メロドラマ的な物語に別種の仕掛けを用意している、と言えそうです。

恐怖の機械的増殖が、「リング」を皮切りにエピゴーネンとして類型が広がっていく中で、正反対の場所へまずは向かったのです。そしてその上で、別種の方法で異化を図る。乗り移られているとは言え、子どもが殺人まで犯してまで母親を求めてしまうことなどが、その最たるものだと思います。

白眉はやっぱり風呂場のシーンですね。水が天井に持ち上がり、子どもは湯船で背中を悪霊に抱きしめられているシーンの、視覚的混乱と、その後の回復(いっせいに落下する水)のダイナミズムがとても素晴らしいのです。