蟲たちの家 / Miles Davis「Miles In The Sky」

BGM : Miles Davis「Miles In The Sky」

持っているけれど、ちゃんと聴いてこなかったジャズCDシリーズがまだまだ続いています(笑)。

Miles In The Sky

Miles In The Sky

黒沢清監督の「蟲たちの家」を見ました。楳図かずお恐怖劇場という連作の1つで、60分の中編です。昨日の日記で中田秀夫監督がメロドラマに回帰しながら同時に、メロドラマの演出の中で異化を図っていったという風に書きましたが(6/28日記)、黒沢清監督のこの新作も、夫婦の衝突という要素が全面に押し出されていて、やはりこれまでとは違う展開がはじまるのではないか、と予感させる作品なのでした。「家族」というモチーフは、「ニンゲン合格」以降、「アカルイミライ」など擬似的なものも含めて続いていましたし、また「大いなる幻影」では若いカップルが描かれてもいました。しかし、夫婦なり男女の関係にある二人が、正面からぶつかり合う作品は(多くの場合、もっとも物語に成りやすいにも関わらず)、黒沢清の映画ではずっと避けられてきたように感じるのです。

考えてみると、夫婦という単位は、家族という単位よりも、本人たちの意志に左右されるのかもしれません。両親が離婚しても、兄弟は兄弟ですし、親子は親子であり、緩やかな意味では、家族は家族としてあるのだと思われますが、その中で夫婦だけは、「離婚」ですから当たり前ですが、関係の切断を意識して為されます。そうしたことが夫婦には可能なのですから、逆を言うと、共にいることは相互の意志として選ばれたことだと言えます。

以下、ネタばれです。

相互、というのは、そう単純なことではないのだろうと「蟲たちの家」を見て思います。この映画では、夫の暴力から逃れるために妻が虫になってしまう、という、西島秀俊緒川たまきの夫婦に起こった異常な危機を描いているわけですが、その「話」は、視点によってまったく「姿」を変えてしまいます。

夫の目から見ると、それは妻の妄想に過ぎません。彼女は、元々夫に暴力を振るわれるという妄想、閉じこめられているという妄想を抱いており、だから彼女を慕う俳優の青年を招き入れ、つい抱き合ってしまったのを夫に目撃され、恐怖から逃げ出すと、虫になりたい、虫になりたいと願い、おかしくなってしまったと思うわけです。彼はそれを確かめるために、一夜だけ関係のあった、彼を慕う女性を連れて、家へ向かいます。もしかしたら、妻の狂気の方が真実なのではないか、と思えてきたのかもしれません。

これに対し妻の目からは、それはすべて本当に起こったことであり、夫は浮気相手と従兄弟を勘違いしてその頭をたたきつぶし、彼女を殺しに来る、だから虫にならねばと思い、虫になったと思っているわけです。そして蝶となり、甲虫となり、いまは蜘蛛となって、夫の目を誤魔化していると思っています。

しかし、これはあながち幻想とも言えないのです。というのも、彼女が巨大な蜘蛛になって、夫が連れてきた女を殺し、夫にも鋭い爪で迫ってくるからです。一瞬あとに彼女は普通の人間の姿に戻る。それは、夫もまた幻覚を見たにすぎない、というのが、正しい解釈でしょう。ですが、実際に死体が存在するのならば、どこかに怪物が(それが人間の心が虫になったのだとしても、実際に虫だったのだとしても)が確かにいた、とも言えるのです。死体にこそ宿る現実があります。結局、実際に蜘蛛となったかならなかったかは、それほど重要ではないのかもしれません。

更に、従兄弟の回想では、夫に目撃された時の出来事が、妻の記憶と更に異なっています。実際には、半ば緒川たまきが誘うようにして、二人は抱き合っていたのです。そのあと、夫に目撃され逃げまどったのは同じにしろ、そうなると物語はまったく別の様相を示します。従兄弟には、夫婦のその出来事を湾曲する必要はないので、おそらくこれこそが実際に起こったことと思われます。実際には彼は頭をたたきつぶされてはいなかった。けれど、それも重要ではないのかもしれません。妻の目には、従兄弟は殺されかけたのだし、夫は、自分の替わりに、つれてきた女が従兄弟の俳優の頭を花瓶で叩いて倒したのを見て、死んでいても構わない、と無表情で呟くのです。そんなふうに、時間軸を越えて、起こらなかったはずのことが、あとから、別の人間の手を経て起こりながら、夫婦の妄想は強化されていくのかもしれません。

つまり、相互に向かい合う夫婦という関係が、欲望を共有する(あるいは相手に伝え、受け入れて貰う)という作業によって可能なのだとしたら、欲望が妄想としか言い様のないものに変節してしまったとしても、夫婦であろうとする限り、それを受け止め、共有せざる得ないのかもしれません。

映画は、冒頭から回想が入り交じるのですが、どの時間がどの順番で並ぶのかは、微妙にわからない形で進んでいきます。車で家に帰ろうとしている夫と女が話している時間と、妻と従兄弟が逢っている時間は、同じ時間のようでもありますし、違う時間のようでもあります。そうした時間の混乱は、映画を見る側だけの問題ではなく、前述のように、妄想を強化するような接続をも起こしていきます。そして、妻と夫の立場が入れ替わり、夫の方が虫となり、その世話を妻がするというラストを見ると、殺されてしまう女も、従兄弟の青年も含めて、様々な接続の可能性(異常なものも含め)があったことに思い当たります。部屋がすっかり片づいてしまうと、もはやどの時間がどこに帰属していたのか、整理はつくのですが、その接続もまた緩やかになってしまいます。おそらく、そうしたあやふやな時間の流れ方こそが自然だったのです。単に様々なショットが入れ替え可能な中で、人間もまた入れ替え可能だったのかもしれません。そしてそれでも夫婦がなお、敢えて互いを夫婦とする過程を示している、そういう映画だと、言えるのかもしれません。