The Loop Orchestra / 「ノミ・ソング」

BGM : The Loop Orchestra「Not Overtly Orchestral」

Not Overtly Orchestral

Not Overtly Orchestral

ひどく気に入っています。オープンリールのテープレコーダーを複数台組み合わせ、切り貼りしたテープをその間でループさせて(HPで伸びきったテープが3台のデッキをまたがってループしている様子を見ることが出来ます)、ミニマル・ミュージックを作るというへんてこな手法は、手作業の偶然が生み出した無数のずれの面白さと、しかしセレクトされた素材の音がきちんと響きあう組み合わせの妙がかみ合い、けれどなぜそんな方法に期待しなければならないのか、結局は冗談のようなことをまじめにやりぬく太さでもあって、何かとても楽しいのです。オーストラリアのユニットとのこと。

音楽は音楽に過ぎないのだから、それがどう作られたかという過程は無意味だ、という考え方も正しい一方で、しかし、どう作られたか、という外部を音楽に進入させることで、別種の刺激となりうるのも事実です。The Loop Orchestraの場合、手作業の偶然性を最大限効果的に生かしつつ、機械的にループを刻むという方法は、むしろ音それ自体に期待するという明確な態度があって、その上で必然的に選ばれた手法かもしれません。しかし、実作業の光景は冗談でしかないわけです。制作過程に話題性を持たせることで、音楽の周囲を物語化しつつも、同時に物語には還元されない音の可能性を、機械的に作り出そうとしている、と整理できるかもしれません。そしてその併置に意味を持たせているのです。必然性を帯びた冗談、ですね。

音楽の周辺に物語を導入する、という話で、先日見た「ノミ・ソング」という映画を思い出しました。クラウス・ノミのドキュメンタリーです。この映画では、逆にすべてを物語化していく、といえそうです。幾人かの証言者の言葉は、クラウス・ノミの物語を美しく強化していきます。しかし彼らが語り得ない出来事は、ただ語り得ず、ただ単に欠落します。まだエイズが全くの解明されていないころ、エイズで死んでいく、ひどい孤独の中にあったクラウス・ノミのことを、もっと丁寧に描いていけば、欠落のなかから物語化されないものが見えてきたかもしれません。しかし、語り得ないものにとどまろうとはせず、この映画は、宇宙から来た歌い手が宇宙へと帰っていった、美しい物語の中にクラウス・ノミを置こうとします。それがクラウス・ノミに相応しい、と監督は考えたのかもしれません。また、あながちそれが的はずれだとも言えない、ノミの受容のされ方もあったと思われます。しかし私には違和感がありました。それはクラウス・ノミの音楽…というよりも、あの時代の喧噪をいま振り返ることに、別種の可能性を感じているからです。そこにおいてエイズは、非常に重要なキーだと個人的には思うのですけれどね。たとえば古橋悌二さんを思い出しつつ。