Karin Krog / ゴットハルト鉄道

BGM : Karin Krog「We Could Be Flying」

ウィー・クッド・ビー・フライング

ウィー・クッド・ビー・フライング

これもジャケでも買いだった気がします。カーリン・クローグはノルウェージャズ・シンガーだそうで、このアルバムでも、少しかすれた繊細な柔らかい歌声で、お酒を飲みながら一人過ごすのには最適ですが、明日も仕事なので、無理は禁物です。ピアノのアレンジが気に入って、おそらくこのアルバムを買うきっかけになったT1の表題曲、サンバなT6「RAINDROPS, RAINDROPS」、これもかなり踊れそうなT8「HOLD OUT YOUR HAND」あたりが好き。

多和田葉子「ゴットハルト鉄道」を読みました。収録されていたのは表題作の他2作で、「無精卵」と「隅田川の皺男」です。

ゴットハルト鉄道 (講談社文芸文庫)

ゴットハルト鉄道 (講談社文芸文庫)

私はまったく読書家ではありません、と、この日記上で何回か告白してますが、多和田葉子の本もこの本が初めてです。入り口としてどうだったのか、とか、よくわかりません。そもそも、どうしてこの本から読もうと思ったのか、我ながらよくわからないのです。人に幾度も薦められていたのは「容疑者の夜行列車」のほうでしたので。

ただ、どちらにしても大変面白かったのです。3つの短編を読んで感じたのは、男性が女性と肉体的に交わる、という形態とは別に存在するエロティシズム、性的欲望の多様さです。そこには、2者、あるいは何人かの人間が交錯しようとする欲望の切実さがあるのですが、同時に、多くの場合うまく行きません。それはある意味当然で、多和田葉子は男性器が女性器にすっぽり納まるような凸と凹の安逸さを回避しているからです。母と子のような関係もそこには含まれます。おそらく、そもそも凸と凹の安逸さこそ幻想なのでしょう。

「ゴットハルト鉄道」は、語り部の女性が、ドイツからスイスへと入っていくゴットハルト(=神の使い)山のトンネルを通る紀行文を依頼され、取材に行く中で見たり考えたりしたことを書く、という体裁の小説なのですが、無骨な山に穿たれた穴への旅は、聖人のお腹に進入することのように感じられたり、女性がドイツにいる恋人の男性のへその穴や口に指をつき入れた記憶に通じたりしながら、とても性的なものとして、しかし凸と凹の安逸へ回収されないまま描かれるのです。では女性はどこに向かうのでしょう。女性はトンネルを越えてどこかに行くのではありません。トンネルを行ったり来たりし、さらにゴットハルトのトンネルの上の、雪山に登ったりしながら、あくまでトンネル=穴そのものに拘ります。そして不意に雪山の道が氷の上にある気づく。ふと死という穴の上にふと立っているのに怯えるのです。エロティシズムと死、という公式の問題ではないと思います。それは複数のアプローチをする上での当然のリスクなのかもしれません。しかし、豊かさはあります。そのように、凹に対する女性(彼女は男性の代わりに凸であろうとするのではない)の無数のアプローチが、様々に繰り返されるのです。

そして、そうしたアプローチの繰り返しから、不思議な共犯関係が生まれ、予想もしないものまで含め伝達されたり、成立してしまったりする楽しさも、3作の短編の中に盛り込まれています。凸と凹の安逸さが、有精卵だったり、果実だったりをイメージさせるのに対して、そこにはやはり無精卵しかないわけですが、無精卵が自己分裂を始める可能性とでもいうのでしょうか。ただし、それらは現実的な痛ましさが無数に生まれたあと、かすかに見える、といった感じではあって、しかも2者の間にあって、2者の関係を強化してくれたりするわけでもないのです。孤独、かもしれません。