歴史教科書 / Cookin' With The Miles Davis Quintet

<新しい歴史教科書を作る会>の教科書が、どこかの教育委員会で採択された、というニュースが流れていました。その教科書を読んでいるわけではないので、どうこう言う気はありません。ただ、そのニュースと共に流れてくる言葉、たとえば日本人としての正しい歴史観を、とか、日本人としての誇りや祖先への敬意を、みたいな言葉には疑問を感じてしまいます。私は、日本人の一員としてよりも、この世界の一員として、自分なりに持ちうる歴史観を持ちたい、世界の一員として敬意を感じる先人に敬意を表したい、そのために必要な素材としての歴史教科書が欲しい、と素朴に思うのでした(日本史の教科書であれ、ですね)。

ただ、教科書とはいえ歴史を記述する際には、どうしても書き手の解釈の問題が出てくるとは思います。様々な文献を照らし合わせ、組み立てながら、一つのなだらかな流れを「物語る」わけですから、歴史はすべてフィクションだとすら言えるわけです。そこで求められる、望ましい教科書とはどのようなものでしょう。私は、教科書自体が自ら歴史の解釈に立ち向かい、批判的に咀嚼する契機を含むような、そんな教科書こそ望ましいのだと思います。いや、これは教科書の問題ではなくて、教育の問題なのかもしれませんが。逆に、望まれない教科書とは、解釈を押しつける、思考を停止させるようなものでしょう。

そうそう、先日、北野武のTVタックルで、首相の靖国神社参拝の是非を番組を放映していたんですね。そこで、詳しい話は忘れたのですが、参拝に異議ありの方が、以前中国に行った時の経験談を話していた。すると、参拝に賛成な方のお一人が、いきなり「嘘っぽい」と口を挟んだのですね。内容は正確に覚えていないのですが、その「嘘っぽい」という言葉だけが、とても印象的で、不思議と残っています。というのも相手が話す話を、「嘘っぽい」で斬り捨てたら、会話も議論も成立しないからです。疑いの心を持つな、というのではないのです。相手の話を鵜呑みにしない姿勢は大事です。しかし、是非を論じあうような場では、相手の言葉はいったん受け止めて、そういう話もあり得るという前提で、なお嘘と断じるためには、まず反証をあげなければなりません。しかし、とはいっても個人的な体験に反証することは、かなり難しいはずです。だからやはり「嘘っぽい」という発言は、大変失礼だと思います(ところで、この話を思い出したのは、番組に<新しい歴史教科書を作る会>の方が出演されていたからです。しかし、件の「嘘っぽい」発言が、<新しい歴史教科書を作る会>の方だったか他の方だったかは、忘れました)。

何かをあらかじめ信じていて、守ろうとするために、それとあわないものは嘘と決めつける、そんな話の聞き方が、思考する契機になるとはとうてい思えません。それは参拝に賛同する側であれ、批判する側であれ、ですね。思考停止しか、その先にはないからです。テレビのような公共の場で、そうしたことに鋭敏になれないのだとしたら、やはり相当まずいのではないか、とも感じました。もちろん、歴史を論じる立ち位置からもっとも遠い場所に、そうした思考停止は存在しています。

BGM : Cookin' (With The Miles Davis Quintet

Cookin' With the Miles Davis Quintet

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朝からMy Funny Valentineです。